2016年10月17日月曜日

長柄橋南詰めの観音さんが教えてくれるのは、「口は災いの元」



長柄橋の北区側、つまり南側の橋のたもとに、観音さんが祀られております。
しかも、1体ではありません。中央に立派な観音さんと、右側に、表面が剥落した石仏の観音さんの2体が、おわします。

通常、観世音菩薩が祀られている仏堂を「大悲閣」と呼びます。ここは仏堂や楼閣というほどのサイズではないけれども、それでも、これはこれで大悲閣でしょうな。
大悲とは、大いなる慈悲というほどの意味です。

京都の嵐山、大堰川西側の鳥ヶ岳のてっぺんに、千光寺というお寺さんがあります。もっとも、千光寺という寺名よりも、「大悲閣」という通り名で有名なお寺さんです。眼下の大堰川開削に際して多数の犠牲者が出たことから彼らを弔うために建てられたお寺さんで、やはり観世音菩薩を祀っています。

長柄橋のこの観音さんを見たとき、すぐさま、その、大悲閣を思い浮かべました。
こちらの観音さんも、きっと、淀川の開削や長柄橋架橋の際に亡くなった人たちの弔いのために祀られた観音さんに違いないと思ったからです。

調べてみると、なかなか壮絶な逸話が出てきました。

かつて、このあたりに橋を架けようとしたのだけれども、工事は困難を極め、人柱を立てることとなったのでした。
ところが、です。当然のことながら、誰を人柱にするかで紛糾します。そこで、地元の長者のひとりであった巌氏(iwauji)に相談したところ、「袴に継ぎのある人を」と言ったのだとか。
そこで袴に継ぎのある人を探したところ、なんと、それを言った当の巌氏の袴にこそ、継ぎがあったのでした。
句が残っていて、「物いわじ 父は長柄の橋柱 鳴かず雉子も 射られざらまし」と嘆き悲しんだ一人娘の光照前が詠んでいます。
「物いわじ」は「巌氏」に、掛けてるんだろうか?
ちなみにこれ、推古天皇時代の古事です。

句を見るかぎり、巌氏が自ら人柱となるように仕組んだご宣託ではなく、要らんことを言ったために人柱になってしまったことを悔やみ嘆いているので、この話は英雄譚ではなく、なんともいえん、間抜けではすまされないけれども、やっぱり間抜けな話です。口は災いの元、というやつですな。

いずれにしても、どうやら、このとき、巌氏だけではないでしょうが、架橋に際して犠牲になった人々を弔うために、ここに観音さんが祀られたようです。


観音さんの横には、「旧長柄橋弾痕」と書かれた旧橋脚の一部と、顔から胸にかけての表面が剥落した痛ましい姿の、もう一体の観音さんがいらっしゃいます。

その観音さんの横に、縁起が刻まれた石碑がありました。

そこに書かれていたのは、第2次大戦時の大阪空襲での犠牲者を弔うために、とありました。
1945年(昭和20年)6月7日、第3次大阪大空襲の際、都島区から豊中市にかけて、淀川の両岸は焼き尽くされたそうです。長柄橋の橋の下に避難したものの、400人以上が亡くなったのでした。

中央の観音さんは、その人たちの供養のため、建立されたものなのだそうです。見ると、大慈大悲観世音菩薩、とあります。

1951年(昭和26年)、橋の大修理が行われた際、「旧長柄橋の空襲跡の保存を求める連絡会」の奔走により、ふたつの観音さんは今もしっかりとこの地に安置され、大きな慈悲で包んでいる、ということです。

架橋工事がいかに難事な工事であったか、大空襲がいかに凄惨であったか、そうしたことを、ここの仏堂は今も伝えてます。