2016年5月30日月曜日

緒方洪庵の妻・八重



緒方洪庵といえば適塾。
幕末には、爛熟の元禄期を経たあとにやってくる憂いというか、ある種の閉塞感があって、そのせいで未来を憂う気分があちこちにあったように思います。なんとなく、今の時代に似ているような気もするのですね。
そのせいで、あちこちで私塾ができています。
松下村塾とかもそうだし、大阪では大塩平八郎も私塾をつくってましたな。

適塾も、そのひとつ
今回は、緒方洪庵のお墓です。
墓所は、北区内のお寺さんストリート、かつての寺町、現・同心町にある「龍海寺」。




近くに、こんなのがありました。これで、このあたりがかつて寺町だったことがわかりますね。




洪庵は、晩年、幕府の要請により、江戸で奥医師をしていて、そこで亡くなっているので、じつは東京にもお墓があります。
まあ、有名人は、あちこちにお墓がありますからな。
大阪の龍海寺は、元々が緒方家の菩提寺で、奥さんの八重さんのお墓もこちらにあります。

お寺さんの門前には、「緒方洪庵墓所」とだけ刻まれた碑が建てられてるんですが、むしろ、八重さん、せめて洪庵と併記にするべきやと思いますわ。
それくらい、八重さんの功績もデカい。
八重さんは、それこそ内助の功で洪庵を陰から支えた人です。
七男六女をもうけて育児に追われる一方で、洪庵の事業のために実家から仕送りの工面をしたり、熟成の面倒もちゃーんと見てはったお方です。
適塾の大部屋にある刀傷を見てたら想像できるけど、塾生って、みんな血気盛んなんですよ。まあ、福沢諭吉みたいなガンコで短気な人がいてたことからも、それは容易に想像できるけど。
そーゆー人たちを上手いことコントロールしながら、洪庵の事業のために金の工面をし、育児から家事からやってのけるって、並大抵のことではないと思いますけどね。

姉御肌でね、福沢諭吉は、彼女のことを、私のおっかさんのような人で、非常に豪気な人と評してます。
佐野常民は、適塾で受けた恩義が忘れられずに、八重さんの墓碑銘を書いてます。

その八重さんが亡くなったのは、洪庵が亡くなってから何年も経ってのことだけれども、彼女の葬儀には、門下生から政府関係者から在野の名士から一般人まで2000人が参列したといいます。
普通、ダンナの威光なんて、旦那が亡くなって数年で消えてしまうもんです。でも、彼女は違った。彼女自身が、慕われていたからこそ、です。
葬列の先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅からまだ出てなかったといいますから、とんでもないです。

話は変わって、もひとつおもしろいのは、ここには大村益次郎の墓もあります。
墓といっても、足塚。要するに、大村益次郎の切断された右足が、洪庵夫妻の墓の隣に眠っているそうです。
足をね、洪庵の墓の傍に埋葬してほしいという、大村益次郎たっての遺言やったそうです。

司馬遼太郎が、軍神といわれた大村益次郎を題材に「花神」を書いてます。
そこには、
この足塚は、政治的狂人が墓を暴くかもしれないという危惧から、ずっと内密にされてきた。昭和12年に記録が発見されるまで、寺の住職さえ知らなかった。
昭和15年ようやく碑がたてられるにいたったというのは、見方によっては、思想というこの有毒なものが無毒になるにはそれだけの歳月を必要とした、ということもいえるかもしれない。
と、書かれています。
司馬らしい記述ですね。

訪れたときは、お寺の方がどなたもいらっしゃらなかったので、境内に入ることはできなかったけれども、またいつか、機会を見つけて詣ってみたいもんです。


横へまわってみると、まあまあデカいお寺さんです。

2016年5月23日月曜日

ウメキタ2期工事と牛の薮入り

こんにちは。
5月23日のつひまぶブログです。
今月から週に一度の更新になりました。

グランフロント北館6階で、スカイビル方面を見ながら食事ができると聞いて、早速行ってきました。天気のいい日は夕日がキレイです。


夜景もきっとキレイなんでしょうね。
しかし、今日のメインは夕日や夜景ではなくって、写真の下の方に写っている水たまり。
工事中の柵に囲われた中を上から見下ろせるのは、ビルが多い場所ならではですね。
今は土壌を整えているところなんでしょうか。
水たまりが点在していました。
もともと、埋田だし。

で、思い出したのが、この絵です。


「郷土研究 上方」第5号の表紙の「梅田道牛の薮入」です。
この号は昭和6年発行のものです。
「郷土研究 上方」でちょっと前のことですが、という話は大体明治時代のことなのですが、この牛の薮入りも明治初年の頃まで実際にあった行事だそうです。
今のJR大阪駅の北側に梅田堤があったそうです。
春には一面に菜の花が咲き、げんげ、タンポポのつみ草が咲いているような場所でした。
思い巡らすだけでのどかな風景です。
ここで5月5日の端午の節句のころに農家の人が集まって、飼っていた牛を野面に放して終日遊ばせる行事がありました。これが牛の薮入りです。
当日は、朝から農家の仕事も休みで、本当に丸一日牛を放して、遊ばせていたようです。
しかも、牛には装飾がされていました。
角には紅白の布で巻き、頭上にはショウブやボタン、季節の花を飾り、背には模様のあるきれいな敷物をかけていたそうです。華やかですね。
今では身近に牛はいませんが、100年ほど前には、農家に牛がいるのは当たり前で、こんな行事があるくらい、大事な存在だったこともわかります。
また、梅田が牛が休憩できるくらいのどかな場所だったのだ思うと、時代の変化を感じずには入られません。
そして、水たまりがあって、だだっ広い今。
これも気づいた頃には見られない風景になります。

これからどんな景色になるのか、さらに楽しみが広がります。

2016年5月16日月曜日

梅田地下街待ち合わせのメッカ「泉の広場」。名古屋では?!

大型連休も終わり、街も平常に戻ってきました。
連休中はどこかに出かけられましたか?

さて、つひまぶ「うめ地下号」、もうお読みいただいていると思いますが、梅田の地下での待ち合わせのメッカといえば「泉の広場」とわたしは思っているのですが、名古屋にも似たような地下街広場があるんです。

名古屋最大の繁華街の栄地区は、大阪でいうと「キタ」、名古屋駅を挟んだ東地区(広小路口)は「ミナミ」や再開発真っ只中の「阿倍野」で、西地区(新幹線口や駅西と呼ばれています)は「新世界」といった感じでしょうか。
似たような地下街広場は、栄地区の地下街「サカエチカ」にあります。
場所でいうと、栄でいちばんの繁華街交差点「栄交差点」の真下にあります。梅田でいうと、ヨドバシカメラと新阪急ホテルの交差点「芝田交差点」の真下といったイメージでしょうか。
読みづらいですが、クリスタル広場の文字が…
泉の広場に負けず劣らずの人出でちょっと見にくいです
栄地区での待ち合わせといったら、通称「クリヒロ」というくらい浸透しているのですが、以前この場所には日産自動車の地下街ショールームがあって、実車が展示してあったのを思い出しました。
そう、そこで思い出したのが「ウメ地下号」9ページのトリビア【011】で紹介されていたミニパトです。
よく見ると、イベント用に使われたのミニパトのようです

このミニパトをどうやって搬入したのだろうという疑問が残ったままなのですが、名古屋の日産ショールームでは、搬入は隣接するホテル(名古屋国際ホテル)の地下駐車場と地下街が同じ高さでつながっている設計になっているため、夜中に搬入していたそうです。

このミニパトに限らず、ディアモールの広場で実車が搬入されているのを見ると、周囲に搬入口があるのかなぁと、ついキョロキョロしていまいます。

まだまだ梅田の地下街は奥が深くて、いろいろ想像したり調べてみる余地がありますね!

バイクなら、階段をガタンガタン降りられそうな気も…


2016年5月9日月曜日

女子会におすすめ!梅田茶屋町で、たっぷり野菜のバーニャカウダー

ゴールデンウィークも終わり、
今日から仕事がはじまりますね~

みなさん、こんにちは。ヨリトモです。

今日は、女性におすすめの洒落たお店をご紹介。

カッパ横丁を通り過ぎ、ズーッと高架に沿って北に向かい、
梅田芸術劇場の向かいあたりになると、
ひょっこりとおしゃれな雰囲気のお店があります。

梅田ファクトリーカフェ

ここの目玉は、野菜たーっぷり、たーっぷりのバーニャカウダー!
野菜は本当に山のように美しく盛り付けられて現れます。


少し食べてこのボリューム。
色とりどりの様々な野菜を味わえます!
4人でバクバク食べても、食べても、なくならない。


お野菜の量が多いだけに、肝心のバーニャカウダーソースが冷めてしまうのですが、、
そこは、お店の粋な計らいで、暖かいソースをお代わりし放題!
最後までおいしいソースとおいしいお野菜を楽しめます。

この他のメニューも、盛り付け・味ともに大満足。
ドリンクもアルコール、ノンアルコール共に豊富で、
これまたかわいい色、デコレーションなので、
女子会や、デートにとってもおすすめです。


【お店情報】
梅田ファクトリーカフェ
大阪市北区芝田1-7-2梅田芸術劇場前
MON-SAT11:0024:00(L.O.23:00)
SUN(HOLIDAY)11:0023:30(L.O.22:30)

2016年5月2日月曜日

堂島の地形の変遷史



ドーチカの一番南側に、堂島の変遷がわかる年代ごとの地図が展示されています。
一番古いものは。室町時代。
まだ中之島が南北の2つに分かれていた時代で、堂島や曽根崎もまだ島だったことがわかります。
今とはまったく地形が違いますな。





次が安土桃山時代。
堂島から福島と野田が分離し、一方で、中之島は上島と下島が一体化して大きくなっています。
石山本願寺の跡地に大阪城が築城され、城下町が形成されているのがわかります。





その次は江戸時代前期。
徳川幕府の直轄領になった大坂は、区画がすっかり整備され、ということは商業都市として隆盛を誇っていたことが、この地図からはわかりますな。
河村瑞軒が堂島の護岸工事と架橋工事をおこない、堂島新地が開発されたのも、このころ。




ほいで、時代は下って、江戸時代後期。天保年間です。
淀屋橋の南詰めにあった米市場が、淀屋失脚により、堂島東部に移転しています。
このころの堂島は蔵屋敷が建ちまくっていたはずで、繁栄を積み重ねていたはず。





そして、明治時代。
蔵屋敷がすべて廃止され、そのあとに大坂市役所、商業会議所などが建てられ、商業学校なども建ちます。
梅田村には大阪停車場(現在のJR大阪駅)が生まれ、市内に市電が走ってます。ということは、橋は石橋に変化してるってことですよ。
堂島はついに埋め立てられ(北の大火で発生した瓦礫や焼土を曽根崎側に埋めたため)地続きに。中之島の北側は天神橋まで延びてます。




最後が現代。
市電がすべて姿を消し、高速道路がまちをまたいでいます。
堂島地下センターが記載されてますな。





地形なんて縄文・弥生あたりにカタチが決まって、今に至っていると思ってる人に、よく出会います。
山や平野はそうかもしれないけれども(そんなこともないけれども)、海辺や川 辺って、中世から近代、下手すれば現代であっても大きく変化するわけで、大阪もその例に漏れないってことが、この変遷地図を見てるとわかりますな。

近くに行ったなら、見てみてください。