2016年1月18日月曜日

江戸の天才怪僧・慈雲、中之島に生まれる

日本の仏教というのは、最初、文明の総体として日本に入ってきます。
仏教的な無常観や、世界や宇宙を認識するための思想、さらには建築技術や土木技術など、西の文化の中心地から眩しく放たれる光を、最新のモードとして受け入れようとしたのが、日本に置ける最初の仏教です。

だから、奈良時代のお寺さんは、現代に翻訳すると、その役割は国立大学のようなものです。

これらの国立大学としての仏教寺院は、ときの政府のシンクタンクみたいなもんでもあったわけなので、政治と癒着し、腐敗も起こります。腐敗というのが言い過ぎだとしたら、組織の硬直化と言っていいかもしれません。

その後、日本仏教は、何度かのルネサンスというか、揺り戻しを経験します。

都を京に遷したのは、奈良仏教界、つまり南都六宗の影響から逃れたい朝廷の思惑があったわけだけれども、その流れのなかで、京都のお寺さんは大半が、いわゆる私立のお寺さんとして建立されます。つまり、国家の庇護を受けず、それでも民衆のために、と、真に宗教家としての篤い志を持った人たちが、この時代、ルネサンスを企てます。

日本において、仏教が最も隆盛を誇ったのは鎌倉時代だと思うのだけれども、これは、学問としての仏教が深みを増したことにあるんだと、僕は思っています。その流れのなかで、浄土宗が起こり、門徒宗が新たに起こって、禅宗が起こり、日蓮宗が出てきた。既存仏教では対応できない現実に、新たな考えを持った人たちが台頭してきます。これも、一種のルネサンスというか、揺れ戻し。

まあ、このあたりは本論ではないのでざっと流すとして、江戸時代です。

乱世をくぐり抜けて太平の世になった江戸時代、政策上、新たな宗派が起こる余地はほとんどなかったのだけれども、そのぶん、内部深化や内部からの揺れ戻しが起こります。

ひとつには、念仏を唱えさえすれば極楽に行けるといったような時代を経て、儒教を学ぶにしても仏教を学ぶにしても、なにかにつけて研究をしていこうという考えが主流を占めるようになります。
戒律の復興も、そういうトレンドのなかから生まれてきました。

中之島の、ロイヤルホテルのすぐ東側に、慈雲尊者生誕の地碑が建ってます。



江戸時代、慈雲さんというお坊さんがいたのでした。
もう、江戸時代のそういうトレンドのなかから生まれてきたような、お坊さん。

戒律を重視し密教と梵語を学び、。18歳の時に、京都で儒学まで学んでいます。その後、奈良で顕教、密教、神道と宗派を問わず学び、大阪に戻ってからは戒律の研究をはじめ、灌頂(免許皆伝みたいなもんです)を授かってます。最後には、独自の神道説まで唱え、もはやなんの宗教家わからぬような境地にまで達してしまったお人。

1758年(宝暦8年)、40歳のときに、1,000巻に及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著してます。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするもので、インドの原典を注釈した膨大な文典で、横書き、アルファベット索引付きという驚異的な代物らしいです。
のちに、1898年(明治31年)、フランスの梵語学者シルヴェン・レヴィが来日した折、『梵学津梁』を見て驚き、世界に類を見ないすばらしい著作として、広く海外に紹介したのでした。そのせいで、慈雲さんの業績は広く世界に知られるようになった。梵語の理解度は、当時の世界最高峰レベルに達していたと評価されてます。

釈迦の説いた教えを純粋に実践し、本来の僧侶や寺院のあり方を取り戻そうと戒律復興運動に尽力。冥想に打ち込み、多くの庶民に法を説いて止まなかった慈雲さんは、同時代の剣術家や書家、政治家として活躍した山岡鉄舟から、「日本の小釈迦」と讃えられています。

晩年、名誉や地位を嫌い、自然を友として、超人的な業績を残した慈雲さんは、1804年(文化元年)、87歳の長寿を全うし、京都は大原の奥地にある阿弥陀寺でその生涯を終えました。

生誕の地碑は、リーガロイヤルホテル横、駐車場の一角、草葉の陰に隠れて、ひっそりとたたずんでいます。
もちょっとお祀りしてさしあげたら、と思わないでもないのだけれども、ご本人は、草葉の陰から、この世の有象無象を楽しく眺めているようにも思えてきますな。