2015年12月14日月曜日

「大坂七墓」のひとつ「浜の墓」は日本最初の火葬がおこなわれた場所らしい

その昔、大阪の町の周辺に「大坂七墓」と呼ばれる古い墓地がありまして、「濱」「梅田」「葭原」「千日」「蒲生」「鳶田」「小橋」の7つだといわれています。梅田墓はなくなっちゃってるみたいだし、北区で現存しているところといえば、豊崎の「濱墓所」があります。俗に、浜の墓といわれている、南浜墓地ですな。

この7つの墓をめぐるツアー、七墓巡りというのが江戸時代にありまして、陸奥賢さんがそれを現代によみがえられております。
そのことについては、今年の3月に発刊したつひまぶ「巡礼号」に寄稿していただいているので、そちらをご覧あれ。
楽しくも意義のあるイベントです。

さて、浜の墓。

行ってみると、墓地の入口脇に、お地蔵さんが安置された祠があり、「行基菩薩開基南濱墓所」「道引之地蔵」と刻まれた石碑があります。



行基さんです。
天平時代のお坊さんで、民衆のなかに分け入り、近畿一円におびただしい数の土木と建築を行なった人で、まさに天平時代の田中角栄というか人間ブルドーザーというか、そういう人です。北区内でも、行基が残した仕事は、たくさんあります。

で、この墓地もまた、行基によって整備されたようです。






お地蔵さんの祠に、以下のような縁起がありました。

南浜墓地は、行基菩薩(約1300年前)によって整地され、我が国最初の墓所であって、天平19年7月阿弥陀如来六観音六地蔵尊を安置し、荼毘開闢の供養が行われた。
その後、世相の変遷により次第に荒退し、大正14年豊崎町より大阪市に移管された。
天満の住人秋田羅以(らい)は、日頃、嫡子を望み、神仏に祈願していたところ、ある日、ひとりの行者が訪れ「南浜墓地の南浜地蔵尊を信仰せよ。必ず願いは叶えられる」と言って立ち去った。早速、地蔵尊を祈願したところ、霊験新たか、明治24年1月9日、男子が授けられた。その御恩報謝として同年9月に現存の地蔵尊石仏並びにお堂が建立され、今日に至った。

昭和60年1月20日 導引き地蔵講世話人


縁起には書かれていないのだけれども、ここは日本最初の火葬場が設置された場所でもあるらしいです。

かつては豊崎町が管理していて、今は、大阪市が管理してます。でも、雑草も目立つし、細かく手入れされているわけではないみたいですね。
年代を感じさせる墓が多いのは、新規でお墓を建てることは禁止されているからだそうです。もちろん、現代の墓地のように区画がキチンと整備されているわけではなく、なんとなくランダムに並んでます。





ここで肝試しやったら、相当怖そうですね。。。
というよりも、ちょっと妙な気を感じて、あんまり長居することができませんでした。胸騒ぎめいたものもあったし、僕とは相性がもひとつよろしくないみたいです。ゆる~い時間が流れてる、素敵な場所やとは思うんですけどね。


さて、火葬もそうですが、仏教は、いつごろから葬式に手を染めるようになったんかということを、ツラツラと振り返ってみたいと思います。断片的にいろんな知識を詰め込んでるんで、ここで自分の頭を整理したいな、と。


法隆寺の釈迦三尊や天寿国繍帳が聖徳太子の追善を目的としたものと考えられるので、少なくとも飛鳥時代には、仏教界に死者追善の考えがあったことになります。
ただ、記録を見るかぎりでは、葬儀そのものに仏教がかかわるのは、奈良時代、聖武天皇の埋葬や持統天皇の火葬があるので、仏教が正式な儀式としての葬儀を執り行ったのは、そこあたりではなかろうかと言われています。
持統天皇の葬儀は703年(大宝3年)なので、飛鳥時代末期、奈良時代の幕開け直前。

その後、仏教式の葬儀や死後の供養は、平安時代の貴族社会にひろく見られるようになります。特に浄土教の普及によって、死後の世界としての極楽浄土の観念が一般化し、どうしたら極楽に往生できるか、また死者を極楽で安楽に過ごさせることができるかが大きな関心事になります。宇治の平等院なんて、まさにその考えの具現化ですな。

平安中期になると、源信らに指導された叡山僧の結社である二十五三昧会が(比叡山は念仏の総本山でもあるので、このような念仏中心の修業を行なう集団がいくつか出てきます)、いろいろと様式を整備していきます。
光明真言、つまり念仏とも呪文とも呼ばれるものを唱え、吹きかけた土砂を亡骸に撒く、安養廟をつくり卒塔婆を立てて墓所とする、などの様式を整えていきます。
光明真言によって加持された土砂を遺骸や墓地に撒くと、罪業を除き、成仏して極楽に行けるという考えは、当時、ひろく普及されたようです。

さて、こうした貴族や出家者の場合ではなく、一般の庶民のあいだではどうだったのか。
一般の庶民に仏教を布教したのは、聖と呼ばれる人たちです。
日本の仏教はそもそもが国家事業として輸入されたもので、新たな世界観を輸入すると同時に、そこに付随するさまざまな文明、文字や土木や建築や律令といったものまでを含めての仏教なので、遣隋使や遣唐使などを派遣して国家事業としてそれをやってきました。で、これらをもたらす人たちは、国費の留学生や国費で招いた渡来人たちです。
僧はそのなかに含まれるので、今でいうところの、国家公務員です。イメージとしては、国立大学の教授というのが一番近いですかね。当時の僧というのは、国家権力をバックにした資格、つまり得度が必要で、オレは今日から出家して僧になる!とは、勝手にはできん存在なのでした。

ただ、そういう人たちはエリートだし、下々のことにまで目配せするのはムリというもんで、彼らの恩恵の及ばない一般の民のために、オレは僧の免許はないけれども、人々の救済のために立ち上がる!と、覚醒した人は、まあ、今でいうところの無免許医師の赤ひげ先生みたいなもんですな。
国家公務員として給料もらいながらやってる正式な僧と違って、彼らはボランティアですから、民衆からは聖として崇め奉られ、生き菩薩と呼ばれます。難しい言葉では、私度僧と言います。公に得度(正式な僧としての免状を与えられる儀式)してないので、私度の僧、というほどの意味です。

天平時代の行基や、平安時代にくだると、つぶやいた念仏の言葉が仏さんになってる(言霊ですな)像でおなじみの空也上人などが、私度僧、聖の代表的な人です。

こういう人たちが、生き倒れた人の埋葬などにも携わり、民間への念仏の普及にも大きな役割を果たします。

15世紀頃になると、僧の仕事の大半は葬儀関係が占めるようになってます。

江戸時代になると、寺壇制度が確立されます。
これは、葬式仏教の最後の総仕上げともいうべきもので、寺院と檀家との関係を固定させるこの制度は、そもそもは、キリシタン禁制の徹底という目的を持ってはじめられます。
同時に、寺院が行政の末端となって、民衆の把握と統制に利用される時代のはじまりでもあるわけです。このあたり、江戸幕府の考えた統治システムはようできてるなあ、と思います。民衆に抵抗がなく、空気のように、統制システムを浸透させていくのだから、ようできた制度です。

そのなかで、葬儀と祖先供養は、寺院と檀家を結びつけるもっとも大きな柱となります。この時代、祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖命日の供養にはじまり、戒名、宗門寺の住持など、こと細かい決めごとが決められてます。今に続く葬式の様式の完成形は、この時代にできたと言ってもいいくらいで。

明治以後、政治的な強制がなくなっても、寺院と檀家の関係は残り、さらには今日のように古い家の制度が崩壊しても、なお葬式仏教の機能は変化することなく続いてます。もうね、江戸幕府が考えた統治システムが、どれほど日本人の心をつかんでいたか、ということの証明になってますね、これは。

さて問題は、このような葬式仏教が、仏教思想のなかで、なにを根拠にして発展してきたか、ということです。そもそもが仏教は、自らの悟りを求める宗教で、死者供養は少なくともその中核には位置しません。

釈迦だって、涅槃するにあたって、自らの遺体の処理は在家信者に任せ、出家者には修業に専念することを求めてます。それが、のちにはインドでも死者の追善のためにストゥーパ(仏塔。転じて「卒塔婆」の語源ですな)などに寄進することも行なわれるようになってます。なんでか…。

ひとつには、廻向(eikou)という考えかたがあるんやと思います。廻向とは、もともと善行をある目的のために振り向けることで、悟りのための修業はその最たるもの。
ところが、大乗仏教が形成され、菩薩(利他の精神)という考えが出現し、自らの善行を他者の利益のために振り向けることが認められるようになってきます。
死者のように、すでに善行を成すことのできない者のために代わって善行を成し、その功徳を死者に振り向ける追善ということが、ここで可能になるわけです。
このとき、自分自身の業はあくまで自らが背負うのが原則であるはずの自業自得の考えから、大きく転換します。これ、コペルニクス的転換で、ちょっとでかすぎる転換でついていけるんかいな?と思わんでもないんですが、どれほどかの時間をかけて、そういう転換が行なわれたのでした。

この考えが中国に入り、さらに発展します。

中国は根本的に様式美の国なので、いろいろと仏事が整備されていくわけです。
四十九日まで七日ごとに七回の仏事に加えて、百ヶ日、一周忌、三回忌が修されるようになり、全部で10回の仏事があるので十仏事と呼ばれ、これが十王信仰と結びつけられます。十王信仰は閻魔信仰の発展したもので、四十九日までに裁判が行われたり、最後の裁判官が閻魔大王であったりするのは、十王信仰が十仏事と結びついて仏教入りしたもんです。
日本では、これに彼岸と盆を加えて、十三仏事となります。

民俗学的な目で見ると、日本人の死生観は、死とはタマ(魂)が身体から離脱すること、となります。
まだ新しい死者のタマはアラタマと呼ばれ、荒々しく、人に危害を加える危険な存在です。特に若くして死んだり不慮の事故で死んだ人のタマには、その傾向が著しい。そこでそのアラタマを祀り、鎮める必要があります。死者供養が必要な所以ですね。
こうして供養され、時間が経過するにつれ、次第にタマはその荒々しい性質を失い、穏やかなニギタマへと変化します。やがて年数を経るとまたは個性を失い、祖霊とひとつになり、これがカミ(祖先神)です。
タマがカミになるのにだいたい33年かかるので、年忌の最後が三十三回忌になっているのは、そのため。



…とまあ、断片的に溜めてきた知識を少し整理してみたけれども、まだまだとっ散らかったもんにしかなってませんな。。。。またどこかで、さらに深めていきたいと思ってます。