2015年10月19日月曜日

梅田から新地にかけて、かつて水路だった跡を見る

ども、編集長のルイスです。

キタは相変わらず再開発が進んでいて、超高層ビルや巨大地下街といった「つくりもの」がよく似合っていて、それこそ遊園地やテーマパークといった趣もあるわけだけれども、といって、実際のテーマパークのような、統一されたテーマに沿って都市が形成されているわけでは、ないです。

地勢的、政治的な思惑もさることながら、地相だとか地霊だとかいう因縁話めいた不合理な理由によって、自由な「つくりもの」であるはずの都市形成が、規制されもします。
その意味で、都市は、つくりものでありながら、暗黙の拘束によって過去を受け継がざるを得ないですね。
もっとも、そうした闇のようなものがあってこそ、都市は生きているし、闇の深さだけ眩しい光があって、重層的な深みが出てくるのだとも、歩いていると、実感します。

キタは水路を必要としなくなって久しいけれども(水辺は必要!)、それでも、表層の変貌だけでは拭いされない微細な表情が残っていて、水路であったことすら忘れ去られていたとしても、水が流れていたころの痕跡を残しているところが、いくつかあります。

むかし、曽根崎新地と堂島のあいだには曽根崎川が流れていて、その北側の梅田一帯は田園地帯で縦横に小川が流れていたといいます。

曽根崎新地1丁目のスエヒロの裏手から南側に抜ける道があって、裏道というと暖簾を上げている店には失礼だけれども、勝手口のほうが多いので、そういう雰囲気を漂わせてます。
この道、スエヒロから緩く下りになっていて、この微妙な傾斜が、かつてここが水路だったのだろうな、ということを、感じさせます。

この水路は、曽根崎川に架かっていた曽根崎橋と桜橋の中間から北東へ伸びた水路の分流で、そこから北へ伸びた水路は、国道2号線を横切って駅前第2ビルの東を北へ北へと進んでいくのだけれども、西向きにカーブを切ってます。そのカーブが、そっくりそのまま駅前第2ビルのいびつなかたちになっていて、この、駅前第2ビルのいびつなかたちこそ、その周囲を水路が流れていた痕跡なのだということが、このあたりに立つと、よくわかります。
ためしにgoogle mapで見ると、もっとよくわかります。



このあたり、かつて存在した曽根崎川は、別名、蜆川といって、もともとは清流だったのが、毛馬閘門が造られたせいで水が淀み、ジメジメした川となったことから蜆川、あるいは実際に蜆が採れたことから蜆川と呼ばれた川です。

明治42年の北の大火(天満焼け)のとき、蜆川は焼け跡から出た瓦礫の捨て場となって埋め立てられ、明治45年に上流部分が、大正13年に残りがすべて埋め立てられて姿を消したんですが、その蜆川のことをなぜ延々と書いているのかというと、北新地の歴史を語るうえで、この、蜆川を外すして語ることはできないから。

1688年(元禄元年)、蜆川の南側に堂島新地ができ、1708年(宝永5年)、今度は蜆川の北側に、曽根崎新地が誕生します。
江戸は元禄の、絢爛な町人文化が花開くときです。
遊女を置く茶屋がたくさんできて、これが今の、新地の歓楽街の原型です。

さて、新地といえば、「曾根崎心中」と「心中天網島」のふたつの物語を生んだ土地ですが、そのうちのひとつ、「心中天網島」の舞台となった、茶屋の河庄の跡碑を、見つけました。

紙屋の旦那である治兵衛と新地のホステスさん小春の不倫話で片付けるには重層的すぎる話ですが、その舞台となった茶屋の河庄が、蜆川沿いにあり、その場所は、埋め立てられたゆえに現在は裏道としての香りを放っている、ということに、この場所に立って改めて気づき、都市の光と影を見る思いがしたのでした。

現に、忘れ去られたかのように、自販機と自販機のあいだに挟まれ、ゴミ箱と跡碑が同居しています。