2015年9月28日月曜日

堂島薬師堂のお堂はなぜ超モダンなのか



ども、編集長のルイスです。

あんまり用事はないのだけれども、たまには行く西梅田。
行けば、本屋好きなのでジュンク堂にも行くわけだけれども、ここは広すぎて、なにがどこにあるのかわからん(笑)

さて、ジュンク堂が入っているアバンサ堂島の裏側というか北側に、サッカーボールみたいに多角形の矩形を貼り付けたドーム状の全面鏡張りのような建物がありますな。あの、核シェルターか!と言いたくなるやつね。

あれ、お堂です。
ご存知の方も多いでしょうが、堂島薬師堂ですな。

まだ、堂島が開拓されるまえから、ここは薬師堂があったといいます。
そもそも、堂島の名も、ここにお堂があったから、というのが由来になっているという説もあります。
そのお堂がですね、開発やら再開発やらを経て、今、未来チックな意匠を纏って、この地に安住されているのですね。

調べてみたら、1400年前から、この薬師さんはいらっしゃるらしいですな。ということは、聖徳太子とか推古天皇とか、そういう時代じゃないですか。
その時代から管轄が変わっていないとすれば、法相宗か華厳宗ということになるのですが、そこに当たりをつけて調べてみたら、やっぱりそうで、法相宗の総本山である奈良の薬師寺さんを本山とするお寺さんなのでした。

節分のお水汲みのときも、薬師寺からお坊さんがたくさん来られて、法要を営んではります。
その話は、今年の2月にブログで書きました。

さて、法相宗というのはなかなかおもしろい考えかたをする教えでして、世界は普遍的にひとつだけあるのではなく、10人いれば10の世界があって、つまりは、人が認識している世界はすべて人がつくり出したものである、とする考えです。
人はみんな共通の世界に住んでいると思っているのだけれども、じつはそんなことは全然なくて、モノの見方、感じかたが千差万別であるように、人の数だけ世界があるのだ、と。

たとえば、アフリカの西海岸の名の知れない島で大災害があったとします。
でもそれは、名の知れない島なので、ニュースとなって日本には伝わってこない。
すると、日本に住む僕は、その島のこともその大災害のことも知らないまま過ごすわけです。
これはもう、僕にとっては、その島もその大災害も、ないのとおなじことです。
でも、その島に住む人たちにとっては、大問題なわけ。
そういうふうに、僕と彼とでは見えている世界は違うし、そもそも世界が違うということです。

難しい言葉で「人人唯識」というのだけれども、これは、20世紀になって西洋哲学の世界でハイデッガーが示した「存在と時間」や「認識論」とピッタリ重なってくる考えかたですな。
三蔵法師がインドから持って帰ってきて、それが日本に伝わったモノの考えかたです。

ま、教義はともかくとして、ここに今、薬師さんがいらっしゃるわけです。
薬師さんは、手に薬壷を持っていることでもわかる通り、病気を治してくれる如来さんなのですが、病気が転じて、現世利益を期待する向きに人気のある如来さんです。死んでから天国に行けるとかはともかくとして、今、なんとかしてくれ!と願ってる人に人気のスターです。

堂島といえば長らく米相場の立ったところですから、ゼニ、ゼニ、ゼニ、の、それこそ唯物論の権化のような場所、今でいえばシティかウォール街みたいなもんなので、薬師さんが人気者で、大切にされてきたことも、さもありなんです。

かつて、この地に毎日新聞社があったころ、戦後、毎日新聞社が増築した際に、敷地内に祀られていた薬師堂を敷地東向かいの社有地に移し、その後、堂島アバンサを建設するにあたり、奈良の薬師寺と地元の堂島薬師堂奉賛会からの要請もあって、元の場所に戻ったのだそうです。

そのとき、ミラーガラスを使ったドーム型のモダンなデザインのお堂に生まれ変わりました。ミラーガラス127枚を組み合わせた直径7メートルのドームです。

ここの薬師さんは、正式には薬師瑠璃光如来といい、瑠璃光を纏っているそうです。ならば、ということで、瑠璃光の意味するところの神々しい光というか、そういうものをイメージして、ミラーガラスのお堂になったんでしょう。
奈良にある新薬師寺のお堂にも、今ではステンドガラスが嵌め込まれてるし、そう突飛な発想だとも、僕は思いません。

日本における仏教は、一般的にイメージする宗教というよりも、民主主義や社会主義といった、世のなかのシステムを構築するためのものの考えかた、文明などが総体として伝わってきているので、お寺さんの伽藍等も、最新の建築技法や土木が導入されてきました。そうした技法も含めて仏教だったので、日本の仏教のお寺さんは、いつだってモダンだったはずだし、その伝でいくと、この核シェルターのような超モダンなお堂は、しっかりとその伝統を継承しているのだと、僕は思います。


そうそう、お堂の周辺は池になっていて、ちゃんと蓮もありました。さすが☆

2015年9月24日木曜日

梅田で出会える猫、ハービスの猫。

こんにちは。
9月24日のつひまぶブログです。
以前から、梅田はよく歩いていたのですが、初めて見たときから気になっている猫。
ちょうど、ブリーゼブリーゼの正面入り口の向かいにいます。壁抜けしている猫。
白いタイルの壁の角に、真っ黒の猫。
大きな通り沿いではなく、裏道沿いなのが猫らしい。




一度見たら忘れられない猫です。

そして、この壁抜け猫以外にも、見つけてしまいました。
ハービスの猫。
壁抜け猫がいるハービスプラザのお隣、ハービスエントに、もう一匹猫がいます。
こちらはかなり控えめです。
サイズも、姿も。


さらに、駐車場入り口の隅にいるあたりが、いかにも猫です。
あんまりにもひっそりとしているので、ますます興味をそそられます。
ほかにも仲間がいるかもしれない!!
梅田で会える動物を探しをしてみたくなりました。
「そういえばあそこに…」と、思い出してみると意外と、動物オブジェっていっぱいあります。
みなさんもぜひ、探してみてください。



2015年9月21日月曜日

淀川左岸線延伸部(仮称)を今のうちに歩いておこう

秋の連休、いかがお過ごしでしょうか?
私の場合、会社カレンダーなるものが存在していまして、祝日が公休になることがないので、ホントに祝日に疎くなってしまっているのですが、この週末になんば駅と新大阪駅に行って人の多さに感じました!「世間はお休みモード」を出しまくってることに。

さて、今日のブログテーマですが、みなさん「淀川左岸線延伸部(仮称)」ってご存知ですか?
ざっくり申しますと、環状自動車道路を(大阪都市再生環状道路)作る計画でして、大阪市の資料ではこんな感じになっています。
http://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000295936.html

阪神高速湾岸線から東へ抜けて豊崎出入口を作る計画が「淀川左岸線工事」です。
阪神高速3号神戸線の分岐から豊崎出入口までは、トンネルを掘るそうです。
淀川左岸線ルート図(大阪市HPより)
そして豊崎出入口から東も延伸計画で、それが「淀川左岸線延伸部」と言われる箇所でして、このまま門真ジャンクションまで行くそうです。
淀川左岸線延伸部ルート図(仮称)(大阪市HPより)
この計画では、豊崎出入口を東に走ると、いったん地上に出て高架を走る道路を経由して、大川の手前(毛馬閘門手前くらいでしょうか?)でふたたびトンネル化して門真まで行くそうなのですが、豊崎から毛馬あたりまで北区を横断する自動車道路の高架はどのあたりを通るのか、実際に歩いてみました。
このあたりが豊崎出入口(仮称)
写真右側あたりの高架で分岐する予定だそうです。そのためなのでしょうか、周囲の土地がすでに整備されつつあります。ジャンクションを作ると言わんばかりのカーブした土地がポッカリ空いています。
JRの高架はこのままでしょうから、
自動車道は上を抜ける??
歩いてみて気づいたのですが、今は使われていない道路があるのです。その昔、淀川掘削のための土砂などを運び出す運河として作ったものの名残りでこの場所が残っているそうなのですが、一時期は道路として使っていたのでしょうか?しかも制限速度20キロって。スクールゾーンでも30キロ制限なのに。

でも確実にこの道路の上を片側2車線の自動車道が通るのですね。
この地域は大きな障害もないため、トンネルではなく高架道路を計画しているのでしょうね、予算も低く抑えられるでしょうし。

でも、実際に歩いてみると、意外に住宅地やマンションが多く立ち並んでいて、よほど防音対策をしないと、騒音問題になりかねないかな、とも思いました。
この辺りに住んでいる人たちは「静かな住環境」を求めているでしょうし。
リバーサイドほんじょう周辺
いやー、すごく静か。しかも秋の虫の音色がしてきて、夕方涼むには絶好の場所ですね。
この道を野ざらしにしておくのはもったいない!ということで、北区でも花を植える事業をしています。「建設着手までの数年間」のプロジェクトということらしいですが、興味のある方は参加してみては?

道路が整備されて便利になる反面、静かな場所が北区からまたなくなっていくと思うと少し寂しく思います。
みなさんも「淀川左岸線延伸部(仮称)」が着工されるまでに、一度訪れてみてはどうですか?
まぁ、ここ数年では着手されそうにありませんから、急ぐ必要はなさそうですけれどww

2015年9月17日木曜日

阪急三番街バスターミナルに日本交通のバスが乗り入れられるわけ

タイトルを見て、はあ? と思われる方。あなたは正常です。
よく意味がわかりませんよね。それで普通です。
でも、バスマニアから見たら、少し変なんです。
今日はそんな小ネタをおはなししましょう。



1)そもそも高速バスとは


阪急三番街バスターミナルは、阪急梅田駅の1階にあり、阪急バス・阪急観光バス(阪急バスから、高速・貸切部門が分社化された会社です)の高速バスのりばとして機能しています。主に、信州・北陸方面を中心に、遠くは新潟、南に行けば四国や博多までの路線をカバーして、大阪でも有数の利用者の多いバスターミナルです。旅行好きの方とか、仕事で出張が多い人は使われたこともあるかと思います。

本題のに入る前に、高速バスの運行の説明が必要ですので、さらっと。
高速バスを運行するためにあたっては、まずは国土交通省からの路線の認可(現在は許可)が必要です。そのためには、運転士とバスの確保はもちろんですが、終点に操車場と宿泊所が必要になってきます。大阪方は、阪急バスの自社の車庫などの設備を使えばいいのですが、地方都市の終点はそうもいきません。まずは、その都市に土地を確保する必要があります。バスの車庫はかなり広い面積が必要なので、それらを確保してから、必要な操車設備などを設置しなければなりません。かなりお金が必要ですね。
しかし、運行しても需要がなければ撤退しなきゃならないわけで、そうなると、せっかく確保した車庫用地も宝の持ち腐れ。土地買収資金がなくなるわ、毎年固定資産税がかかるわで、会社のバランスシートを悪くしちゃいます。
そこで登場するのが地方のバス会社。地方のバス会社と手を組むことで、その会社の車庫が使えるというわけ。「共同運行」という方式で、1路線を双方(もしくは複数)の事業者で運行するのです。用地確保するリスクを減らせるわ、運転士もそこで休憩や宿泊ができるし、整備もきちんとできます。地方のバス会社も、大阪に乗り入れできるというメリットがあるので、双方利害関係が一致して、80~90年代にかけて、夜行高速バスのブームが巻き起こります。(高速道路網が整備されてきたというのがいちばんの理由ですが)

2)日交ができる強み

さて、本題の「阪急三番街バスターミナルに日本交通のバスが乗り入れられるわけ」ですが、日本交通。大阪と鳥取などに会社を持つ大手バス会社で、大阪と鳥取を結ぶ高速バスのシェアはトップクラス。というか、ほかに競合する会社もほとんどなく、路線をほぼ独占するという会社であります。
大阪と鳥取に自社の路線があるため、先ほど話した「両都市に車庫と宿泊所が必要」という条件を全て自社で満たしているので、単独運行が実現出来るのです。


そうです。このため大阪-鳥取間には、阪急バスは乗り入れていないのです。今も昔も。


昔は共同運行していたけれども、阪急バスが撤退しちゃって地方のバス会社単独運行する路線も実際にあります。しかし、それも昔のよしみで三番街に乗り入れているだけであって。まあ、利用者の利便もあるし、阪急の車庫を(使用料を払って)借りていたりするので問題はないのです。でも、日交の場合は違う。なんでか。。。。。


日交と阪急は資本関係があるんだ。>いいえ、ありません。
日交と阪急は仲がいいんだ。>まあ、仲は悪くはありません。が、そんな他人に自社の土地建物を貸すほど民間会社は甘くありません。
日交が阪急に使用料を払っているんだ。>まあ、そうなんです。三番街で日交のバス乗車券を売っていますから、賃貸料は発生しているはず。


でも、何故そんな資本関係のない会社に、阪急は乗り入れさせているのでしょうか。それには阪急梅田駅の変遷がかかわってきているのです。


3)3ヶ月の勝負~プロジェクトX

阪急梅田駅は、乗客の増大と共に、北へ北へと大きくなりながら移動してきたのは、このエントリでもご紹介しました。

つひまぶ: 阪急村の歴史
http://tsuhimabu.blogspot.jp/2015/07/blog-post.html

昭和40年代、市街地のドーナツ化現象で通勤客の需要に耐えきれず、国鉄のガードよりも南にあった梅田駅は、10両編成も止まれる現在の新しい駅に移転することになりました。
当然、駅を建設する場所は用地買収が必要なのです。
しかーし、大阪の一等地梅田駅周辺の地価。まあ、高いわけですよ。そこへ、新しい駅ができるとなれば、当然地価はさらに高騰、うなぎ上りなわけですよ。阪急としては、なんとしてもそれを阻止しなければならない。阻止するには、極秘裏に事を進めなければならないわけです。
用意周到に事を進め、梅田駅の移転拡張のプレスリリースから、わずか3ヶ月で用地買収を完了させるという、離れ業を成し遂げるのです。今でもNHKのプロジェクトXがあれば、1本番組ができるくらいの緻密なプロジェクトだったのですよ。

その用地買収した中には、小さな小さなタクシーのりばがあったのでした。タクシーが2~3台止められるスペースに、詰め所のような建物がぽつんとあるような、本当に小さいのりばで、そのタクシーのりばは日本交通が所有していました。

こちらは北新地の相互タクシーのりば。こんなのりばがあったのかも


もう、おわかりですね。
タクシーも運営している日本交通(というか、大阪でいちばん大きいタクシー会社だ)は、同じ交通事業者として、梅田駅の拡張計画が発表されると、進んで用地買収に協力して、格安で自社用地を提供したようです。ただし、梅田駅にバスターミナルを設置するのは知っていたようで、そこに乗り入れさせて欲しいとお願いしたようなのです。阪急としても円滑に事を進めるためにその条件をのんだようで、三番街のバスターミナル完成後、そこに日交のバスが乗り入れるようになったというわけ。


小ネタと言ってましたが、かなり説明が長くなっちゃいました。
会社の歴史もひもとくと、こういう話が出てくるので面白いのですよ。これは、日交の中の人から聞いた話。
まあね、別に利用する会社がどうとかは私たちには関係ないのですが、こういうネタは小ネタとして引き出しの中にでも入れといてください。ネタに困ったときにどうぞお使いくださいませ。

2015年9月10日木曜日

中秋の名月は観月会ではないのです・・・


中秋の名月は、いろんなところで観月会が催されています。
今年は、
927日です。
 大阪天満宮では毎年、中秋の名月に秋思祭という神事が斎行されます。

900910日、宮中清涼殿における重陽の後宴席で、菅原道真公は勅命により「秋思」の詩を詠まれ、醍醐天皇より御衣を拝領しました。
901年、菅原道真公は藤原時平の讒言によって、九州太宰府権帥に左遷され、都を離れました。
都の華やかさとは異なり、配所では寂しく、衣食もままならぬ日々を過ごしました。
一年後、菅原道真公は、都を懐かしみ、天皇をお慕いし、恩賜の御衣を捧げて追憶の漢詩「九月十日」を詠みました。

【漢詩】去年今夜侍清涼  秋思詩篇獨断腸
    恩賜御衣今在此  捧持毎日拝餘香

【通訳】思えば去年の今夜は清涼殿で、陛下のおそば近くお使えしていた。 その時「秋思」という勅題を賜り、詩を作ったが、今これを思うと今昔の感に堪えず腸もちぎれる思い である。
その時、陛下からたいへんおほめにあずかり、御衣を賜ったのであるが、今このように都を遠く離れていて も、恩賜の御衣は毎日捧げ持って、移り香を拝しております。
 
この故事に習い、菅原道真公を追慕し、斎行されるのが秋思祭です。
この詩を詠んだ翌902年、失意の中で菅原道真公は薨去されました。





本殿前、薄明りの中、鈴虫の音が聞こえる静寂の中で、粛々と斎行される天神祭とは対照的な神事です。
天神祭キーパーソンの神童が、神前に鈴虫を献上します。献華、献香、献茶、先述の漢詩も吟じられ、人長舞など平安の幽玄な世界に引き込まれます。
その後、人長・楽師を先頭に観客も本殿を一周します。

18時~21時頃まで長時間に渡る神事ですが、本来は神様に捧げるもので一般には解放していない神事を、体験できる機会です。
中秋の名月は観月会ではない、ご理解いただけましたでしょうか?


2015年9月7日月曜日

かつて茶屋町にあった超高層レジャービル「凌雲閣」

ども、編集長のルイスです。

江戸川乱歩の短編に『押絵と旅する男』というのがありまして、明治から大正の、当時もっとも勢いのあった歓楽街である浅草の街並や風俗が生き生きと描写されていて、映画的で、大変におもしろいのです。

街のランドマークになっていたのは、「凌雲閣」。
高さ約52メートル、12階建てのタワー型の建物で、当時としては、群を抜いて高かったらしいです。
写真で見ると、モダンな顔をしてる建築物だけれども、どことなく悪趣味で、ちょっと見せ物チックな装いをしています。まあ、ひとことで言うと、キッチュ、ということになりますな。



『押絵と旅する男』は、ふとしたことで知り合った男が、風呂敷からおもむろに取り出した挿絵細工にしつらえられた老人と振り袖を着た美少女の身の上話をはじめるという、不思議なお話です。そもそも、押絵を大切に抱えて旅をしている男が不気味だし、押絵に身の上話があることも不気味なら、その身の上話自体も不気味で、じつにじつに、乱歩ワールド全開の幻想的な小説なのです。

ちなみにこの話は日本ペンクラブの電子文藝館に全文がアップされていて、誰でもいつでも読めます。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/novel/edogawaranpo.html

で、そうした幻想をつくり出すためのアイテムとして、浅草の「凌雲閣」がチラッと登場します。
低い瓦屋根が連なる周囲の風景のなかに、突如として、それこそ雲を凌ごうかといわんばかりの塔が、ニョキッと立ち上がっていて、強烈な違和感を放っているのですね。その違和感ゆえに、モダン建築であるのにもかかわらず、どこかグロテスクでもあります。ほとんど、バベルの塔ですね。

世界各国の物販店があり、演芸場があり、娯楽の殿堂だったようです。もちろん最上階はもちろん展望台で、もちろん、富士山も見えたんでしょう。

「凌雲閣」は、1890年(明治23年)の開業当時こそ賑わったものの、10年もすれば客足が鈍るようになり、テコ入れで、1914年(大正3年)に、日本初のエレベータを設置。じつは、これがアダになります。
もともとがエレベータの設置を前提として建てられたわけではなかったので、エレベータの設置は構造強度のうえでとても危険だったらしく、1923年(大正12年)の関東大震災で、建物の上部が崩壊、経営難から復旧も困難で、爆破解体されてしまいました。隣接していた浅草寺の五重塔は関東大震災でも倒壊を免れていたので、エレベータの設置がどんだけムチャなことだったかということがわかります。
33年の寿命ですから、まあ、モニュメントやランドマークとしては、蜃気楼並に儚かったんだと思います。江戸川乱歩の小説とあわさって、余計に、幻想的な存在になってしまってます。

戦後から長らく、森下仁丹が凌雲閣を模してつくった広告塔の仁丹塔があったので、そのせいで、凌雲閣を知ってる人も多いんじゃないかと思います。


さて、そんなわけで、「凌雲閣」といえば浅草なのだけれども、じつは大阪にも「凌雲閣」があります。
茶屋町に今、ユニクロのでっかい店舗が入ったビルがあるけれども、その南側に、旧梅田東小学校の跡地があります。その入口のところに、石碑がありますよ。


とあり、大阪にも浅草同様に「凌雲閣」があったことがわかります。

高さ約39メートル(49メートル説もあり)で、1、2階が5面形、3~8階が8面形、最上階の9階が丸屋根の展望台で、螺旋状に通路が走り…、なんとも凝った意匠の建物です。高さこそ浅草の「凌雲閣」の52メートルに負けてるけれども、こちらは塔というよりも円錐形のかたちをした巨大建築物。なーんと、敷地面積約3940坪!

調べてみると、1889年(明治22年)に建てられたということで、なんと、浅草の「凌雲閣」よりも1年早いじゃないですか!

ここらはかつて茶店が軒を連ねていたところなので、だからこそ町名も茶屋町なのだけれども、その中心に位置する「凌雲閣」は、温泉あり大広間あり池にボートが浮かぶ、ド派手なレジャーランド的な性格の建物だったようです。まさに、こっちのほうこそ、バベルの塔っぽいです(笑)

『大阪繁昌誌』に、写真が載ってました。



この時代、汽車が走る姿や菜の花畑を眺めて遊ぶのが流行り、それこそ茶店が競って展望台をつくったわけです。それでもせいぜいが2階建て3階建てです。それが、いきなり度肝を抜く9階建て!

どうやら、茶屋町に「凌雲閣」ができる前年に、ミナミで「眺望閣」なるやはり高層建築物が建ち、これに対抗して、キタでも高層建築を、という流れになったらしいです。
「眺望閣」が5階建てだったので、「ミナミの5階、キタの9階」と呼ばれていた、と。なんか、今も、キタとミナミにそれぞれ競うようにして観覧車がありますが、それと似てます(笑)

いろいろ調べてみたんですが、この茶屋町の「凌雲閣」は、あんまり資料が残っていないようで、いつまで建っていたのかよくわからんのですよ。蜃気楼か?(笑)

約39メートル、敷地面積約3940坪のバベルの塔も、今は、高さ1メートル程度の碑になっちまいました。
兵どもが夢の跡、ってかんじです。諸行無常ですな。
ほれっ、今じゃこんなんです。



それにしても、東京の浅草に「凌雲閣」を模して仁丹塔をつくった森下仁丹は大阪の会社なのに、なぜ、東京にだけ仁丹塔をつくって、大阪にはつくらなかったんでしょうかね? 森下仁丹が大阪にも仁丹塔をつくっていれば、大阪の「凌雲閣」も、もちょっと人々の記憶にも記録にも残っていたと思うんですが、どうでしょうか?

2015年9月3日木曜日

キタの昔話をもう一度

9月最初のつひまぶブログです。
今日は、物語です。
先日梅田をぶらぶらしていた時のこと。
たまたま立ち寄った本屋さんで、妖怪の本が大々的に並んでいました。
面白かったので、「郷土研究 上方」で妖怪とか怪談とかあったかしらと探してみたら、やっぱりありました。たくさん掲載されている中の、ほんの一部ですがご紹介したいと思います。

日垣明實併書 大阪妖怪書談 ー「郷土研究 上方 上方怪談号」昭和8年9月1日発行の第33号から引用します。ここに記載されているお話はみな、日垣さんが、家族や近所の人、関係者聞いた実話だそうです。妖怪というより幽霊や動物のお話が多いのはそのせいかもしれません。

「狸、車夫を誑らかす」
明治二十年頃迄の事になるが、大阪江戸堀にて毎年、秋より冬に掛けて一二回は必ず左記(本文縦書きのため)の如き騒ぎ有りて、評判となりたり。
江戸堀犬斎橋南詰東の筋は北は川岸にして、橋の無き筋なるが、深夜車夫が客を乗せて此の筋を南より馳来り、橋の無き所にかかわらず、其の儘走り行くにより忽ちにして川中へ顛落し、車上の客と共に悲鳴をあげて呼び立つ事屢々有り。近隣の人等は「そら又やられた」と顔見合せ、飛び出でて協力して車を引摺り上げて助ける也。後にて車夫に仔細を尋ぬるに、此處は橋の無い事と知りつつも、ふと前方に橋が架り在り、橋上を人が二三人行きかう状に、不思議に思ひながらも走る内、遂に川中へ飛び込んだる始末なり、と語れりとぞ。かかる事昔より幾度となくあり、筆者は此の邊に永く住み居たりしより、何度となく事件に出遇して熟知せる所なり。


「塵芥山の大蜥蜴」
天満堀川(當今の北区扇町公園附近)の邊は明治維新前には天満邊の塵芥の一大捨場となって居り、人呼んでごもく山と称して居たり。其の後堀川を淀川へ開通さす為工事を起すに際し、其のごもく山を取り除き、清潔になさんものと、時の役人共が、人夫を指揮して、何十年の間汚物にて宛ら山の如く成り居る處を、取壊しに掛かれり。工事も追々捗る内、突如として、異様なる音響と共に、中より凡そ六尺に近き大蜥蜴飛び出し、役人共を睨み付けたるにより、何れもびっくり仰天し、我を忘れて逃げたり。其の間に大とかげは、前なる堀川へ飛び込んだといふ。此の事有りてより、近年に至る迄、毎年此の附近にて二三人の水死人有り。矢張り此の大蜥蜴の仕業ならんかといふ、筆者は此の近所木幡町の生れなれば幼少の折両親より屢々話を聞き且つ川遊びを止められたり。


大蜥蜴のお話は、以前にご紹介した青空書房 坂本さんの「扇町公園と云う空間」にもでてきます。こういうお話だったんですね。意外なところで、つながってしましました。