2015年7月2日木曜日

青空書房 坂本さんからのお便り 「扇町公園と云う空間」

7月になりました。
梅雨真っ只中の今日この頃。いかがお過ごしでしょうか?

このたび、青空書房の坂本さんから素敵な地図とその解説文をいただきました!
せっかくなので全文掲載でご紹介したいと思います。

「扇町公園と云う空間」
江戸時代、ここは空地でゴミ捨て場だったそうな
そのゴミの山を焼いたら大鼬が飛びだしたと伝説にある。明治になってから監獄、大正12年まで、脚に鉄球鉛をつけられた罪人が天神橋筋を通っていたそうであるが、今在る我々は見た経験がないので想像するだけ。扇町と云うのは、末広がりに幸せを呼ぶことから付けられた町名だそうな。でも真中に公式プールがあって、戦後古橋、橋爪選手が水泳世界記録を樹立し、戦後心身共に疲弊していた市民達に、明るい希望の灯を点してくれた。
中之島公園ほど歴史を持たずとも地域市民唯一の憩いと安らぎのこの空間こそ、暗雲の中の小さな青空ででもあった。正に庶民の町の天窓である。




この図は、軍国日本の重苦しい圧迫感を物ともしない大阪市民の心の拠り処、緑きらめく健康な拠点であった。
早朝、ラジオ体操の為人々は集い
昼、野球で元気一杯駆ける
若さの息吹き、躍動が光る
大阪の若々しい一つの心臓がここにあり
青春と云う血液を育んでいた。

JRは国鉄、今と違って地上を走り
梅田→先づ鶴橋、そして天王寺までデゴイチなどが煙を吐いて走った。
鉄道は下、市電は天神橋五丁目から坂を上り、扇町で降りる。この国鉄をまたぐ坂は十三→南浜にもあった。
長いガードの下にはどて焼やか立飲みおでん屋が店を出していた。いつもほの暗くほっとするおやじの隠れスポットであった。
東に抜けると有名な牛肉店が栄えていた。
十丁目筋は戦前から北唯一の繁華街で映画館が4つ、演劇場(都館)と賑い、都館にはエンタツ・アチャコも来た。
今、北区役所と8チャンネルテレビのある処には衛生試験所、工業試験所、公園北入口に交通局病院があった。扇町公園の中央に石の休憩所があった。そして中央にスタンドがあり、それが後に公式プールになった。公園に小さなテニスコートそれに接して園内に食い入るように市営の質屋があった。公園に面して北側には扇町族と呼ばれるインテリ層が住んでいて官吏、教職の方が官舎に居た。赤い煉瓦の外壁、青い屋根瓦が、通りを隔て南隣りのお地蔵様長屋を睥睨していた。
お金も知識も豊かな扇町族と呼ぶエリート層であった。北野病院が今の様に立派でなかった頃である。堀川乳児院と云う市の施設があった。乳幼児の健康診断と働きに行く婦人達の帰りまで預かる大阪市の優しい施設だった。一定の収入に満たない家庭の低額の産院すらあった。今の中崎町「民団」の前である。福祉という言葉が麗々しく取扱われている現状に比して、貧しかった日本が心をこめて次代の育成に日常的に取りくんでいた。
「命の母」の黒塀がずっと続いていて井路川と呼ばれる溝ほどの川が道路を横切って、淀川から堀川につながり、中之島につづいていた。長柄淀川堤みに染料工場があって高い物干しに、長い晒しの布が幾條にも旗幟りの様に翻っていて、その場はラッポと呼ばれる赤蜻蛉も群れなして飛び、夏には木立ちに蝉がかしましかった。
戦争のあと、廃墟となって大阪も処々に旧に戻って来た。失われた風情は戻らず、きらびやかなスマホ文化が取りかわった。
以上、旧地図に付し老人の感傷である。

手書き原稿をなるべくそのまま写しました。
お会いするたびに、昔の、扇町周辺の姿を伝えておきたいとおっしゃっていました。
地図は以前に書かれたものなので、ご覧になったことがある方もいらっしゃるかと思います。「地図だけではわからないだろうから、解説も書くよ」とおっしゃっていただき、いただいたものが、今回の解説文です。
今とは随分違っていて、見飽きない地図です。