2015年4月9日木曜日

淀屋橋と常安橋の由来をたずねて、淀屋のことを少しだけ。

淀屋橋と常安橋の由来を辿ると、淀屋にあたります。
堂島の米会所、中之島の開発の歴史を辿ってみても、淀屋にあたります。

で、淀屋って?

淀屋の初代常安は、京都八幡の出身で、淀川を通じて木材を運ぶ材木商でした。中之島の開発をしたのを機に大阪に店を構えます。常安橋の常安とはこの人の名前なんですね。
二代目言當は、途絶えていた青物市の復活、雑魚場市の設立、米市の設立をします。淀屋を大きくしたのはこの人だったようです。
三代目箇斎は、二代目言當の弟といわれています。
四代目重當のころに淀屋は最盛期を迎えます。上方以西の大名で淀屋から借金をしていない者はないとまで言われました。
五代目廣當の時に、その富に応じた生活ぶりは、町人の分を超えた豪奢な振る舞いだとして闕所となります。

闕所はけっしょと読みます。
江戸時代の闕所は、島流し、追放、死罪の付加罪で、簡単にいうと、財産没収です。
闕所当時の淀屋の総資産は、現在の価値でなんと100兆円!
すべて幕府に没収されました。闕所の理由については謎が多く、資料はいろいろあるようですが、伝説のようなお話も多いのだとか。近松門左衛門によって浄瑠璃の演目にもなりました。

大阪で淀屋の事を調べると大体ここまでのお話で、終わりです。

ところが、この先のお話があったのです。
四代目重當のころ、淀屋は暖簾分けをします。幕府に目をつけられていることを自覚しており、いずれなんらかのお咎めを受けることを予測していたというのです。
当時の番頭 牧田仁右衛門は、故郷である倉吉の地で淀屋を開きます。
それが、明治まで続く倉吉淀屋です。





大阪の淀屋が闕所となったのちも倉吉で力をつけ、倉吉一の豪商となります。
倉吉淀屋も、鳥取藩の藩米を取り扱うなどしていたそうですが、特筆すべきは、鉄製の稲こき千刃の開発と販売です。

倉吉淀屋は、地元の刀鍛冶とともに開発、販売に尽力したといわれています。稲こきとは、脱穀のこと。稲をもみと藁に分けるための器具が稲こき千刃です。もともと竹でつくられていました。細いくし状の刃に稲をとおすものですが、刃を鉄製にすることで丈夫で楽に大量のもみを脱穀でき、重宝されたそうです。倉吉の鉄製の稲扱き千刃は、もののよさもさることながら、行商による修理などのアフターサービスも充実していたため、全国にひろまります。

その後、倉吉淀屋は大阪に進出、岡本家の時代に屋敷があったあたりに店を構えたといいます。その歴代当主は、倉吉淀屋の当主の弟であったり、子どもであったりと、密接な関係を維持しています。

                                


その後、倉吉淀屋は八代目まで、大阪淀屋は五代目まで続きますが、幕末、突如店を閉め、資金を朝廷に献上して、表舞台から去っていったと言われています。
闕所からおよそ150年以上後のことですが、それ以外にも、幕府との間に深い因縁があったのでしょうか?実際のところは、まだよくわかっていないようです。
闕所といい、店じまいといい、なにか大きな思惑があっての事だったように思えてなりません。妄想が広がりますね!!