2015年3月9日月曜日

「市電と接続さえしていればいい」メソッド(前編)

3月というと、鉄道やバスなどの交通機関のダイヤ改正が行われる季節。全国を走るJRグループがダイヤ改正するのに合わせ、各鉄道・バス会社までもがこの時期に合わせるからのようです。これ、なんでかというと、ダイヤというのは色々な要素が複雑に絡んでくるので、1つの鉄道会社が単独で出来ないんですね。単独でダイヤ改正なんかをやると、他会社の列車に乗り継げないなんていう事が起こるわけ。それだけなら利用者の方で対応すればいいんですけど、乗り換えられる方の鉄道会社の方では、特定の列車に乗客が集中してしまって遅れの原因を作ってしまうこともあるとか。なので、各会社と調整しながらダイヤを作っているそうです。こういう調整がとにかく大事なようです。

さて、3月21日に、近鉄バスでもダイヤが変わります。北区内では阪奈線という梅田から東大阪稲田まで走る路線がありますが、(昔は奈良まで行ってたんですけどね) ここでは全時間帯30分に一本という減便が行われます。つい10年ほど前は15分間隔、朝夕ラッシュ時には10分以内にやって来た程度の本数があったんですけど、今回は朝夕関係なく30分ヘッドということになり、通勤需要もここまで落ちたかっていうレベルになりました。(最盛期は朝ラッシュ時に2分間隔で走っていたとのことです。すごいわ)15分間隔から20分間隔になった場合、乗客の逸走は半分にまで落ち込むとデータがあるんですが、30分間隔ではかなり厳しいんじゃないかなと危惧しております。

前置きが長くなりました。


そもそも、この近鉄バス。大阪市内なのに近鉄バスが走る珍しい区間ですね。上六や阿部野橋、平野区あたりで近鉄バスは走ってはいるものの、ごく限られた場所でしかお目にかかれません。市中心部から郊外区間までロングラン運転しているのはすでにここだけになっています。
何故、大阪市内に民間バス会社の路線が存在しているのか。現在でも阪急バスや阪神バスなども北区内には走っていますので、今日はそのあたりを含めて、戦前、いやはや、バス誕生の黎明期からのお話をしたいと思います。


なお、かなーりマニアックなので、皆さんがついてこられるか心配です。でも、今回はやらせてもらいますw
また、画像や写真を用意しておりません。ちょっと難しい内容になるかもしれませんがご了解ください。
さらに、今回無茶苦茶長くなっていますので、前後半でご紹介いたします。本日は前半です。
戦前から終戦直後あたりのお話をできればと思っています。
それでは、スタート。




大阪市内は、乗合バスというと、今ではほぼ大阪市バスが独占しています。よく、「市営モンロー主義」とか言われていますが、これ、経営者側の言い訳なんです。これが悪なわけじゃないんです。当時の大阪では、市民は電車(市電のことを当時は電車と言った)・バス・地下鉄というのは、社会インフラという認識をしていて、大阪市が高い金を出して作った道路にバスを走らせて料金収入を得ることは極めて妥当であって、そんな道路に民間会社のバスなどが走るのはまかりならん。と考えていたようです。
これは、大正時代に象徴される「自由民権運動」の成熟期とほぼ重なり、大変市民には浸透していた考え方だったようです。今では考えられないことですが、当時は郷土愛や愛国心が高かった時代を象徴しているようです。
ですから、「市営モンロー主義」は、ネガティブ表現ではなく、単に市民の誇りを表現した単語であるということを公表しておきたいと思います。

また、戦後はエリア1事業者制という運輸省の方針で、大阪市内は大阪市が優先的に運営を任せられることになり、この「市営モンロー主義」が確固たるものになり、ネットワークが形成されることになります。


ようやくここからが本題。


では、バス黎明期の大阪はどうだったの?そして、今日のタイトルでもある。民営バスはどうやって路線を伸ばしたの?
大阪の街中を最初に走ったバスは民間会社のバスでした。大阪乗合自動車(通称青バス)が本格的に営業を開始しました。これは多くの方々がご存じでしょう。大阪の歴史でバスの話題を紐解くと、まず誰もが目にする話ですから。
ですので、この話は端折ります。(笑)
北区に関係あるのは太融寺車庫くらいですし。(太融寺近辺に市バスの車庫や青バスの車庫があったの、ご存じ?)


大阪市中心部には市バスと青バスしか存在しなかったので、郊外のバス会社がどのように変遷したかを見てみることにします。



1)越すに越されぬ長柄橋

北摂から市内、北区に乗り入れるには、淀川を超えなければなりません。そのうちのひとつ、長柄橋。
今では民間会社が乗り入れていない長柄橋ですが、戦後すぐに、阪急バスが天六から高槻あたりまで路線を延ばしています。しかし、戦前は全く違っていたのでした。


昭和2年に、高槻の唐崎あたりの住人が経営する小さなバス会社が誕生します。唐崎・柱本から長柄橋北詰まで、淀川の堤防を利用して、1日3往復のささやかな路線が誕生しました。
バス黎明期(大正末期から昭和初め)には、このように、個人経営のバス会社が多く登場します。ただ、昭和の大恐慌や、自動車の維持管理という設備資本に耐えられなかったのか、数年で廃業したり、別会社に吸収されたりして、ほとんどが残らなかったようです。
おなじく、長柄橋北詰を起点として、淀川乗合自動車(現在の神戸の阪神タクシー、バス経営権は阪神バスに譲渡)が、これまた淀川の堤防を使い姫島まで、そこから梅田街道を走って辰巳橋(現在も左門殿川にかかる国道43号線の橋)までの路線を開設してます。
両者とも、長柄橋を起点にしていたのは、「市電と接続さえしていればいい」メソッドが発動されてからに他なりません。

この、「市電と接続さえしていればいい」メソッドは、昔は大変重要であったらしく、いろんな場所で見かけます。今の地下鉄と同じくらい重要視されていたのだと思います。
北摂からだと、長柄橋、野田阪神電車前(現:野田阪神)、大阪駅前が候補に挙がるのでしょうが、大阪駅に直接乗り入れる道路がなく、野田阪神も、この後お話しする阪神国道の免許関係もあって、市電と接続できるのは、長柄橋だけでした。しかも、市電が延長されたのは昭和2年。バス路線が誕生した時期とぴったり重なるんです。市電が長柄橋に延長されると同時に開設されるバス路線。何か、今でも、地下鉄や駅ができると開設されるバス路線がありますが、当時からしている事を発見してびっくりしましたよ。乗り換え需要があると思っていたのでしょうか。

この時点では、バスは長柄橋北詰が終点。市電は南詰めまで。徒歩連絡をして市電に乗り換えていたようです。この理由はわかっていません。当時の長柄橋は、まだ東海道線の単線の鉄道橋を転用した物で、幅員が足りないと判断したんでしょうか。あくまでも想像ですが。
しかし、2年後にバスが長柄橋南詰まで乗り入れて、市電と乗り換えが便利になりました。

それもつかの間、唐崎の個人経営のバス会社の経営がおぼつかなかったのか、起点を省線吹田駅に短縮させてしまいます。「市電と接続さえしていればいい」メソッドよりも、国鉄に接続して、運行距離を短くすることを選んだようです。この路線は、その後紆余曲折もあり、現在は阪急バスの吹田摂津線として今も残っています。
淀川乗合自動車の方は、戦後に天六まで路線を延ばしますが、1日7本という過疎路線。野田で系統が分断されて残りますが、30年代頃に阪神のバス部門を整理統合するにあたり、いつの間にか消滅してしまいます。1日7本では人々の記憶には残らないんだろうな。



2)十三大橋

北摂から来るバスが乗り入れるには、十三大橋を外せないんじゃないかな?などとお思いの方。残念でした。
まだ、昭和の初めは十三大橋は鉄橋であるものの、神崎橋に架かる橋がことごとく木橋でバスが通れないので、民間会社のバスが乗り入れた記録がありません。
現在では、阪急バスが頻発しており、梅田を起点に箕面まで行っていますね。

戦前は、その阪急バス(当時は阪急合同バス)が十三を起点にして、製薬会社が多く進出してきた加島・神崎橋へのピストン輸送をしていました。今でも神崎橋までは、朝ラッシュ時に3分半間隔を維持していて活況を呈していますが、当時でも1日100往復以上していたというから、相当に需要のある区間でした。一部は加島から阪神千船駅まで走っていたようです。

阪急バスは「市電と接続さえしていればいい」メソッドは発動させなかったの?
いい質問ですねー(池上彰風に)
まあ、阪急バスですから、「阪急と接続させればいい」メソッドではなかったのかなと。(笑) もうひとつは、残念ながら、まだこの時期に中津高架橋が完成しておらず、(全通は昭和16年だったように思うけど、これは自信がありません。誰か調べて~) 梅田などに直接乗り入れる道路がなかったため。また、十三と加島の往復に資源を集中していたんでしょうね。賢いやり方だと思います。


あ、そうそう。この区間で「市電と接続していればいいや」的な路線は、大阪市バスがやっています。東淀川区三国町内やまだ完成してもいない新三国橋から、十三大橋を超え福島西通に向かう路線。これ、今の39号系統のご先祖様ですね。十三からだと梅田を目指せよと思いますが、前述の通り、道路がないので、仕方なく市電の通る福島西通まで走らせました。


(阪急バス加島線に関しては、私の個人ブログでまち歩きをした時のレポがありますので参考にどうぞ http://namihyanote.hatenadiary.jp/entry/2014/12/09/170000




えー、皆さん。付いてきていますか?
内容は理解出来ていますでしょうか。
長くなりましたので、この辺で前半終了したいと思います。

全体の半分はお話し出来たと思うのですが、まだ戦後のお話がまだ書けておりませんので(汗 もしかすると、3部作になるかもしれません。



「市電と接続さえしていればいい」メソッド(前編)
http://tsuhimabu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_10.html

「市電と接続さえしていればいい」メソッド(中編)
http://tsuhimabu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_11.html