2015年3月11日水曜日

市電と接続さえしていればいいメソッド(後編)

さて、最後の章になります。

このブログ、関係者のみアクセス数というのもが見れるのですが、前回、前々回のアクセス数がすこぶる悪いのですw
これは、あまりにもマニアックすぎて、あまりにも長ったらしいのが関係しているんだろうなー。と、思います。まあ、ある程度想定していたんですけどね。
本日は戦後のお話になるのですが、これは、現役世代にも関係してくる話になるので、簡素にまとめたいと思います。


民営バス会社がどうやって市内に乗り入れたのか。戦後のお話。

終戦直後北区内には以下のような路線がありました

長柄橋南詰-野田阪神前(阪神乗合自動車・休止していたらしい)
梅田新道-佃町-尼崎方面(阪神国道バス)
東野田町4丁目-鶴見町-大東方面(近畿日本鉄道・東野田付近は、昭和19年に北区から都島区に分区)



終戦直後は大混乱の中、鉄道も相次ぐ戦災で荒廃しており、輸送力の増強が必要な時代。しかし、物資もなく、限界の状況だったようで、そこでバスを代替輸送として走らそうというアイデアを思いついたようです。昭和21年頃のお話。
この頃は、「市電と接続さえしていればいい」メソッドはなくなってしまったんでしょうかね。なし崩し的になったという考え方も出来ますか。

そうなると、大阪市内に民間バスの停留所ができてしまうと、大阪市が難色を示します。
こうあると埒があかないので、許認可の権限があった大阪府と運輸省が仲裁に入り、とにかく、電車ターミナルまでなら問題ないだろって事で、阪急バスと京阪自動車(当時鉄道は阪急に統合されていたけど、バスは統合されていなかった)が、それぞれ梅田、天満橋まで乗り入れてくるのです。(昭和25年に、遅れて天六まで乗り入れ)

その後、昭和23年頃に、今度は乗客の利便を考えて難波まで乗り入れたい。近鉄は大阪駅までとか言うもんだから、またここでも一悶着。
鉄道の補完的役割としてバス路線開設したんやろ。それは絶対に認めん。と、強固に反対する大阪市。このあたりから、大阪市と民間バス会社でドロドロとした因縁めいたものが生まれてしまいます。
特に、国道26号線の難波-西住之江間の南海バスのやりとりは、トロリーバスの問題もあって、行政訴訟にまで発展する有様なんですが、このブログでは直接関係しないので割愛します。

結局は、個別に運輸協定を結んで、大阪市のバスも市外に乗り出す路線を認めるとともに、民間バス会社も市の中心部にバスターミナルを作って、そこまで乗り入れるとの運輸省裁定が下されたのです。
この時代に近鉄バスが梅田まで乗り入れることになります。


その後、昭和40年代になると、走行環境が悪化してきたのか、相次ぐ撤退が始まります。
まず、バスターミナルが東区内本町という、中心部からずれたところにあって使い勝手が悪かったようで、大阪万博直前の、4大幹線一方通行化に合わせて閉鎖。このあたりで天六を通過する阪急バス路線が廃止、天満橋を通過する京阪バスが京橋起点に短縮されます。
日本初のハイウェー、国道2号線を走る阪神バスも、昭和47年に梅田新道から撤退。阪神野田に起点が移ります。
その後、阪神北大阪線廃止に伴う代替バスなどが出来ますが、相次ぐ減便・撤退などが重なって、今元気なのは梅田を起点としている阪急バスくらいしかありませんね。




このように、歴史を紐解くと、いろんなお話があるわけなんです。
まあ、自己満足の世界なんですけど、こういう歴史を調べるというのは大変面白い。先代が苦闘したドラマをのぞき見するのは、小説よりも重くて親近感が湧くんですね。
また機会があれば、他の分野でも同じ事したいですねー


長々とおつきあいいただきましてありがとうございました。ブログとしては長々とした駄文になってしまった感がありますが、検索で来られた方に、少しでも資料として提供出来るのであればこの上ない幸せ。
参考文献は、阪神国道の開通部分以外は書籍からネタを仕入れております。ご一報いただけたら開示させていただきます。