2015年3月10日火曜日

「市電と接続さえしていればいい」メソッド(中編)

本日は、前回の続きです。
民間のバス会社が、いかにして大阪市内に路線を伸ばしているのかをご紹介しています。
前回は、長柄橋と十三大橋から来るバスのお話をしましたが、あと3つもあります。




3)昭和のハイウェー。国道2号線

バスの話をする前に、道路の話をしておかなければなりません。

日本の自動車道路の幕開けはどこかと聞かれたら、名神高速道路尼崎-栗東間を挙げる人も多いかと思います。日本の本格的な高速自動車国道の第1号区間ですから当然ですし、高度経済成長を支えた立役者でもありますからね。
しかし、私はあえて国道2号線の「阪神国道」を挙げたいと思います。

明治・大正時代の日本の道路というのは、全くをもって酷い道で、「一級国道」という都市と都市を結ぶ重要路線ですら、昔の街道をそっくりそのまま国道指定しただけ。途中の町中では荷車が通るのがやっと。東京-横浜などの最重要区間でも、一部を除き舗装道路がないなど、おおよそ「一級に嘘偽りあり」みたいな道路だったのです。当時は鉄道を優先して敷設するという方針があったから仕方ないのですが、有事のことを考えると大変問題で、産業振興にも大いに不利です。そとで、大正8年に道路法が制定され、道路整備に取りかかるのでした。

そのモデルケースというわけではありませんが、大正15年に、大阪梅田新道から神戸三宮までの阪神国道が完成します。ほぼ直線的な道路、幅員15~18メートルの広大さ(電車道含まず)、全線舗装、中央に郊外電車(阪神国道線ですな)を配置するという、新しい都市間「ハイウェー」として、国道としての新たな幕が上がります。
「道路が直線」ということが自慢になるくらいのどうろですから、今までの道は何だったの?というくらい今までの道が酷かった。そして、阪神国道の期待がすごいのがわかっていただけるでしょう。


さあ、そんな新しい道路にバスを走らせないわけがない。大正末期に新しい交通機関として登場したバス。そのバス事業にひとりの男がベンチャー企業を立ち上げて、バス事業の免許を申請したのです。
当時のバス事業はベンチャーなんですよ。すごいですねー
でも、その免許申請を黙っていないのが二点間を鉄道で結ぶ阪急と阪神。鉄道事業を脅かすかもしれないバスに戦々恐々としているのでした。しかし、関連会社がすでにバスを運転しているということもあり、どうせならバスも関連会社で統一をとばかりに同じ申請を出す有様。これでは競合・共倒れという事態も起こりかねません。当時の監督庁内務省の指導もあり、申請を一本化して、阪神国道バス(通称阪国バス)を作り、仲良くベンチャーの男と、阪急・阪神が株を分け合って設立します。

そういう事情があるこのバス会社、国道2号線を忠実に走るということで、この路線は「市電と接続さえしていればいい」メソッドは通用しないんですね。しかも、ターミナル近くである梅田新道まで難なく到達している訳ですから。
なお、梅新交差点から神戸の三ノ宮まで、1日約60本程度が運行されていたそう。その後の諸事情で、ベンチャーの男が阪神電鉄に株式を売却、阪神合同バス(現在の阪急バス)も経営から身を引いたので、実質阪神が経営するようになります。



4)戦前は紳士協定。戦後は血みどろの戦い。国道1号線

国道2号線は新しい道路の開通で路線が開設されましたが、国道1号線はどうでしょうか。前回の冒頭でもご紹介した近鉄バスが走っています。
ここに何故近鉄バスが走っているのかは、昭和の大軌(近鉄)・京阪・奈良電(近鉄京都線)・国鉄片町線の、複雑に絡まる利権の奪い合いの産物だったということ。
この話は大変興味深く、これだけで1冊書けるくらいの分量になってしまうくらいあるのです。面白い話なのですが、ばっさり割愛いたします。残念です。

一言で言えば、片町線と京阪本線の間にある鉄道空白区。ここに鉄道を誰が敷くかという話なのです。結局、最初に許可が下りた大軌(近鉄)が早急に建設に取りかかったものの、片町線の電化に阻まれ開通出来なかったようです。
で、その後、郊外には鉄道を通す用地買収はすでに済んでいて、それをどうするかが問題になっていました。が、この土地を道路に転用する方向でまとまり、地元の方は産業道路などと呼んでいるみたいですが、阪奈道路、大阪生駒線が開通することとなります。今福鶴見から寺川あたりまでの道路がその転用区間で、その昔「大軌四條畷線」のなれの果てだったと思うと感慨深いですね。

そういう事情もあり、昭和15年に近鉄バスが路線を開設します。当然でしょうね。
免許区間は蒲生4丁目が起点。その西側は、すでに大阪市が免許を持っていたため、ここでも「市電に接続さえしていればいい」メソッドが発動して、市バスと相互乗り入れをすることに。近鉄バスは市電の最寄りの東野田4丁目(現在の東野田)まで、市バスは市の境界であった鶴見町まで乗り入れたようです。


5)謎な路線京阪バス

さて、お待たせしました。最後です。
北区周辺のお話なのに、何故か京阪バスが出てこない。京阪も、国道1号線を使って近年まで京橋まで乗り入れていたのに全く話にあがってこない。
京阪も、実は戦前に路線を持っていました。
しかし、情報がまるでない。

空心町2丁目を起点として、淀川橋を超えて大川左岸を北上し、毛馬の閘門手前で曲がり、赤川町8丁目(現在の赤川1丁目付近)に至る路線を開設していたようなのです。

淀川橋は、以前このブログでも紹介しました。

地図に「知らない橋」が描かれてあったので現地に見に行ってみたら

この道路を通っていたようです。

これ以上の情報が全くありません。いつ開設されたのか、いつ頃まで走っていたのか、定かではありません。何か情報をお持ちの方は、ぜひお知らせいただけると幸いです。
捕捉しておきますと、当時の京阪電車は天満橋のターミナル(当時OMMビルにあった)が手狭で、新たなターミナルを梅田に置きたかったようす。このため、このあたりに新線の計画を持っており、そのためのバス路線開設だったのではと推測しているのですが、それすら断定することができません。どうぞよろしくお願いします。


以上が戦前の大阪市内、主に梅田近辺での民間バスに関するお話でした。阪国バスを除き、全てが「市電と接続さえしていればいい」メソッドを充分に活用し、大阪市内までの輸送を確保していたんだなあということがおわかりいただけたかと思います。

その後、時代は戦争へと移り変わります。日中戦争から太平洋戦争へ。そして、物資の配給制となり、バスの輸送は困難を極め、さらに追い打ちをかけるように、資材難が襲ってきます。
当時の資料は、私は調べた事はまだありません。資料らしい資料が残っているとは思えないからです。公文書ですら出てこない事が多いですからね。あきらめました。

話は戦後へと移りたいと思いますが、ちょうど、区切りもいいことですし、また、後日、改めさせていただこうと思います。
あまりにも長すぎで、引っ張りすぎとは思いますが、もう止まりません。(笑)