2015年3月19日木曜日

4年目の3.11を迎えて、「キタの大火」を振り返る

4年前の3.11、東日本大震災がありました。
以降、全国であらためて防災意識が高まり、北区でも防災計画がまとめられています。
ハザードマップや防災マップなど、自助・共助のために知っておくべき情報も、区や市のHP等にたくさんアップされています。
そーゆー話を、前々回エントリのmikawanさんが、書いていました。

「区の広報誌で今、これから、もしもを「知る」」

なので僕は別方面から、キタの災害の歴史を。
たとえば、約300年前の宝永4年(1707年)に、宝永地震が発生しました。これは、南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定されており、記録に残る日本最大級の地震です。無論、大きな津波も発生し、大阪に大きな被害をもたらしたことが語り継がれています。堂島付近で、震度7ですよ!

水害だと、淀川ですね。明治18年(1885年)の淀川洪水では、キタもミナミもすっぽり浸水しています。新淀川開削、淀川の直線化、毛馬洗堰の設置など、大規模な改修事業で、大阪はその都度乗り越えてきたのでした。淀川先生バンザイ!

台風だと、昭和9年(1934年)の室戸台風。大阪直撃の大型台風で、被害甚大。豊崎小学校の校舎が倒壊して、児童19名が亡くなってます。曽根崎小学校、清美小学校の木造校舎も全壊。

とまあ、比較的災害の少ない大阪とはいえ、歴史的なスパンで見ると、大きな災害に何度も見舞われています。

なかでも、超ド級なのは、やっぱ、「キタの大火」。
キタの大火は、今から約100年前の明治42年(1909年)に発生した、北区の大半を焼き尽くした大火事です。
そのときの様子を伝える写真は消防署が何枚か持っていますが、以前、その複写をいただいたので、ここで放出します。


明治42年7月31日午前4時20分、北区空心町2-70(現在の扇町総合高校付近)のメリヤス業玉田庄太郎さん方から、出火。仕方がないとはいえ、こうして今も名前が残ってるのは、当人にとってはイヤでしょうな(笑)

出火と同時に市内はもちろん、隣接町村から警察、消防組が来援し消火に努めたのだけれども、メリヤスはほら、爆弾の原料にすらなるほど燃えやすい材料でもあることから、まず、付近の松ヶ枝小学校を類焼させて火勢を強め、たちまちのうちに、松ヶ枝町、壺屋町を襲い、河内町、此花町を火の海とします。メリヤスなので、たぶん、粉塵爆発もあったんじゃないでしょうか?




真夏の炎天続きでよく乾燥していたのと、強い東北の疾風に煽られて、この火が西へ西へと燃え広がっていったのでした。

その後、火の手は南北にわかれ、ひとつは此花町から北西に、もうひとつは南に進み、天満宮こそ消防手の必死の活動により難をのがれたけれども、天神橋筋2丁目から南森町を一掃し、午前11時30分には、天満堀川の岸に達します。

天満堀川を第1防火線としていたものの、その両岸にある竹屋が川中に差し出していた竹竿を伝って、火が西岸に移ります。こうやって写真を見ると、焼け残った家は、なぜ焼け残ったのか?と不思議に思えるほどの惨事です。




木造だった大江橋も、焼け落ちました。






天満堀川を超えると、そこは西天満。官公署や神社がひしめく場所です。西天満小学校が災禍に遭い、老松座、老松神社は全焼し、当時若松町にあった北区役所、さらには北警察署、大阪控訴院、地方裁判所も火災に包まれます。
それらをひと舐めし、大阪控訴院前の堂島浜一帯には、逃げ場を失った群衆がどっと詰めかけて、持ち出された家財道具なども散乱する大混雑となりました。
しかし、そのあいだも、うしろから風に煽られた火炎が迫ってくるわけです。焼死者はもちろん出るし、さながら地獄絵図のようだったとか。救援の船が次々に岸に横付けして、被災者の輸送にあたりました。

中之島公会堂が避難場所になってます。




西堀川方面の火勢は、東梅ヶ枝町、西梅ヶ枝町から北野に達し、第2防火線と頼んだ梅田新道も難なく突破し、午後8時30分、ついにお初天神が焼け落ち、その直後、蜆橋も焼け落ちました。






猛火はそれからも全然収まらず、北の新地(当時は、「北新地」ではなく「北の新地」と呼んでました)から堂島浜一帯を包み込んで、堂島米穀取引所、桜橋の劇場・福井座を焼き、曽根崎警察署と静観楼を半焼し、曽根崎川の橋などをことごとく焼き尽くします。






曽根崎新地の人たちは、船に家具を積んで火の粉が舞う曽根崎川を必死に西へ逃げたのでした。このとき、風速は毎秒17.3m~19.4mを記録し、火炎がうなりをあげて空に舞う状態やったそうです。




第3の防御線であった出入橋付近一帯の空き地、堂島割掘も火勢を阻むには至らず、そのころ、堂島浜通2丁目にあった市立高等商業高校、大阪府立測候所、知事官舎を総なめにし、福島区に入り、上福島1丁目、2丁目、3丁目、上福島中1丁目、2丁目、3丁目を焼き、上の天神、福島郵便局を焼失したのでした。




折りからの強風が衰えたのと消防の活躍によって、福島中の天神石垣から日本紡績会社の高塀に遮られて、ようやく鎮火。出火から約24時間後の8月1日午前4時のことでした。

出火とともに北警察署をはじめとする市内各警察署、消防のほか、知事の要請で陸軍第4師団の歩兵部隊も出動し、天満堀川西岸の第1防火線で民家の取り壊しなどにあたりました。これには師団長自らが出馬し、高槻工兵第4大隊、砲兵第4総隊、軽重兵第4大隊も破壊作業にあたり、出動兵力は3,394名に達しました。

下の図の黒く塗られたところが、火災に蹂躙されたエリアです。堂島川の北側、北区の東西にわたって被災していて、とんでもない超ど級の火事だったことが、この図からもわかります。




罹災面積は約37万坪。
東西1,850間。幅員の広いところで300間。
罹災町数51町。
焼失戸数11,365戸。
官公舎11、学校8、神社4、寺院16、銀行4、会社10、劇場2、病院1、料亭1、橋梁21。

大阪市は8月1日夜、臨時救護団を組織し、仏照寺(天満別院)、太融寺、曽根崎小学校、第一上福島小学校、市立金襴会高等女学校に救護団出張所を設け、負傷者の治療にあたるとともに、炊き出しを行ないました。このときに扱った傷病者は1,693人、重傷者は病院に収容しました。

また、この大火の報が伝わり、明治天皇は、8月6日、日野西侍従を差遣し罹災状況を視察させ、お見舞金として12,000円を下賜されてます。のちに、このお見舞金は、その達しの写しを添えて、全罹災世帯に1円ずつ分配されています。達しの写しが添えられていた、という配慮が泣かせます。天皇陛下の達しですから、お見舞金はもとより、この達しの写しは、再興への勇気を与えたでしょうな。

国内外から739,300円の義援金が寄せられ、一部を罹災者に分配するとともに、その残余金352,000円に同額の市費を加えて、恒久的な施設として財団法人弘済会が設立され、これが市立弘済会病院の発端となります。

全国から寄せられた援助物資については、臨時に市立高商跡にバラック倉庫を急造して保管し、10月10日から3次にわたって分配されました。

大火のあと、その瓦礫を利用して、曽根崎川が埋め立てられました。

また、この大火は当時の市民を大いに震え上がらせ、消防強化の世論となって沸騰し、これが契機となって、翌43年、大阪市消防規定が発布され、同年4月1日に大阪府北消防署が開庁するに至りました。

さらに、この焼け跡の土地を利用して、空心町から梅田新道を経て桜橋にいたる市電道路が敷設されることになり、明治44年7月に開通します。この道路が、のちに、国道1号線、2号線の中継点となったのでした。


キタの大火は、大阪の歴史を調べていると、すぐに遭遇する出来事だけれども、写真はあまり出まわっていないので、貴重なものやと思います。

防災対策を考える際、過去の災害史を振り返ることはとても有効だといいます。
未来に向けてなにかを考える際のヒントは、たいていの場合、過去にたくさん眠っています。
そんなことを思いながら、これからも、キタの歴史を掘り返していけたら、と思っています。