2015年3月30日月曜日

桜、咲いてます!@大川

暖かな日和に誘われて、仕事や何もかもほっぽり出して、
お外でお花見やピクニックをしたい!
という、抑えがたい衝動にかられるのは私だけではないはず!
こんにちは、よりともです。


昨日の恵みの雨を受けて、一斉に花開いたのか、
天満橋の駅を降りると広がる春の風景。
川辺の桜は眩しい程に美しく、
自然と天満橋や南天満公園を行き交う人々の顔もほころんでいました。




既に、南天満公園では、お弁当を広げてお花見を楽しむ子ども連れや、
夜の宴会に向けて場所取りに来ているお兄さん等、
桜に魅せられて賑わっております。





天満橋からは、桜クルーズも出ていますよ〜
プチクルーズをリーズナブルに楽しめるので、
この機会に、川側からの桜を愛でてみるのもオススメです。



桜は早い木だと満開近いですが、
全体的には今週の週末あたりがピークではないでしょうか?
会社帰りや移動の途中に、ぜひ水辺の桜をお楽しみください!


2015年3月26日木曜日

一日で七つの徳をいただきましょう!ありがたや~

つひまぶ春号「GOGO巡礼!」、見開きの御朱印感動ものですよね。
制作側としては、結構疲れました。(笑)

さて、つひまぶを読んでおわかりのように昔から様々な巡礼があって、江戸時代に巡礼が流行っていたようです。昔の人は、信仰深かったのですね。
あんなにたくさんの巡礼があるのかとびっくり!
もし、まだご覧になっていない方は、横にあるPDFでどうぞ

つひまぶ春号でも少し触れている現代版の巡礼に「なにわ七幸めぐり」があります。

幕末、廃仏毀釈という仏教排斥運動が起こり、明治政府が下した神仏分離令によって、
明治以降、社寺仏閣が合祀できなくなりました。
そういう過去の歴史を越えて神仏習合の理念に賛同する社寺によって始まりました。

提唱者は堺屋太一氏、昭和58年(1983年)の「大阪築城400年まつり」を皮切りに始まった「大阪21世紀計画」の中で、分離された社寺仏閣が再び一つになり、日本がさらには世界が一つになることを願う、この理念に賛同した大阪でも昔から多くの人に愛され、信仰されてる七寺社が選ばれました。
太融寺(無病息災)
大阪天満宮(学業成就)

住吉大社(厄除祈願)
四天王寺(家内安全)
大念佛寺(諸芸上達)
四條畷神社(心願成就)
今宮戎神社(商売繁盛) 
以上、七社寺で、北区には二社寺があります。

人生には七つの難関があると言われます。
難関を乗り越え、より良い人生を送るために七社寺の神仏から叡智を授かり身につける。

七つのご利益を授かろうと、現代の巡礼とも言える「なにわ七幸めぐり」に行って来ました。
色紙に御朱印を受け満願すると二年間、四天王寺にて名前が掲示され、お願い事ができます。
 
七社寺を巡って受けた御朱印、色紙代1000円・御朱印代300円X7=2100円、がかかりましたが、なかなかりっぱなものです。

周る順番はどこからでもOK!
ホームページにも出ていますが、実践してみて効率の良い周り方
太融寺→大阪天満宮→四条畷神社→大念佛寺→今宮戎神社→住吉大社→四天王寺
太融寺→大阪天満宮 市バス36番(寺町→南森町)又は徒歩20分
大阪天満宮→四条畷神社 JR学研都市線(大阪天満宮→四条畷)
四條畷神社→大念佛寺 JR学研都市線(四条畷→大阪天満宮)乗換え、地下鉄谷町線(南森町→平野)
大念佛寺→今宮戎神社 地下鉄谷町線(平野→天王寺)乗換え、地下鉄御堂筋線(天王寺→動物園前)
今宮戎神社→住吉大社 阪堺電気軌道阪堺線(新今宮駅前→住吉鳥居前)
住吉大社→四天王寺 阪堺電気軌道阪堺線 (住吉鳥居前→天王寺駅前)

注意事項
*四天王寺社務所は16時までなので、ご注意ください。
*四條畷駅から神社までは遠くて坂道と長い階段があるので、歩きに自信のない方はタクシーがよいと思います。

七つの徳を授けてもらって今年はより良い年になることと思います。

七社寺持ち回りで開催される七幸市、大阪天満宮では毎年3月第一日曜になります。
今年の七幸市の様子



天神橋筋商店会の有志の方々から、暖かいかす汁が振る舞われます。

なにわ七幸めぐりは「大阪築城400年まつり」で始まりました。
今年は「大阪の陣400年」、新しい平成巡礼ができるのでしょうか?

2015年3月23日月曜日

つひまぶ春号「GOGO!巡礼」ドロップしたので、 宗教と巡礼と聖地と観光について



ども、編集長のルイスです。
「つひまぶ」春号、ドロップしました。
今回は、「GOGO!巡礼」です。
西国三十三所巡礼やお遍路だけでなく、じつは大阪にもたくさんの巡礼路があって、北区の神社仏閣が含まれているものもあります。
そういうものを集めてみました。

配布場所も増えてます。このブログの右サイドバーにずらずらっと並んでいるので、ぜひぜひ手に入れてください。
もちろん、PDF版もあります。
PDF版 →「PDF版 つひまぶ 春号」!


中崎町の山伏さん(←いらっしゃるんですよ!)に、本気の巡礼を語ってもらい、そのあとは、気軽にできるカジュアルな巡礼、聖地巡りなど。
もちろん、御朱印もたくさん揃えました。
天満界隈でかつては賑わっていた「お大師さんの日」も。

区がかかわるもので、宗教色のあるコンテンツを出すのは、おそらく初めてだと思うのだけれども、今の時代、宗教と真正面から向き合うと、とてもしんどいものになります。ISISとかあるからね。
なら、んなもんやらなくてもいいんでないかい、ということにもなるわけですが、どーしてもやりたい理由もあったのです。それは、後述します。

さて、宗教と真正面から向き合うのはしんどいので、キーにしたのは、「巡礼」と「聖地」です。

巡礼や聖地と聞いて、多くの人は、何を思い浮かべますかね?
お遍路、西国三十三所巡礼、熊野古道、富士登山、パワースポット巡り…、近年、聖地巡礼の人気はうなぎのぼりです。JRをはじめとする各電鉄や旅行代理店は、こぞってキャンペーンを張っています。
ここ数年は、伊勢神宮、出雲大社の遷宮にあたったことから、両社は空前の参拝ブーム。
もちろん、聖地巡礼は古くからおこなわれてきたし、今でも修学旅行で京都や奈良の寺社を巡るのは定番でしょう。

海外に目を転じると、スペイン北西部の大聖堂を目指すサンティアゴ・デ・コンポステラ、エルサレムやローマ、イスラムのメッカ、ヒンドゥの聖地・バラナシ、アポリジニの聖地・エアーズロック…、いろんな場所が思い浮かんできます。
そんなふうに、日本にも海外にも、無数の巡礼や聖地が存在します。

聖地といえば、なにも宗教がらみばかりではないですね。
たとえば、甲子園は高校球児の聖地です。「セーラームーン」における赤坂氷川神社、「天地無用!」における太老神社などなど。アニメがきっかけとなって聖地化した場所もたくさんあります。
さらには、パワースポット。これもまた、聖地の一種です。京都の清明神社や鞍馬寺、沖縄の斎場御嶽は、パワースポットとして人気があります。

宗教的な結びつきのあるものから、そうでないものまで、巡礼や聖地にもさまざまあります。
宗教的な聖地や巡礼にかぎって見ても、それが純・宗教的な行為なのかというと、どーもそうではない。

たとえば、僕も西国三十三所巡礼をやっています(番外も含めて、あと5ヶ寺くらい。残ってるのは全部遠いんだ、これが)。でも、特に、仏教を熱心に信仰しているわけではないです。だいたい、僕の名前の「ルイス」は、キリスト教会でもらった名前です。そっちもまた、なんちゃって、ですが(笑)
そこには癒しもあれば、ふりかえり、建築や仏像、仏教文化への興味、まち歩きなど、動機はさまざまあるけれども、純然たる宗教的な動機ではなく、乱暴にくくってしまうなら、観光です。物見遊山ですね。

ただ、こうした、宗教と観光の結びつきは、むかしから見られてきたものでもあります。
たとえば、江戸時代には「おかげまいり」が大流行しました。何度かのブームがあって、最盛期には、数百万人の群衆が、伊勢神宮の参拝を目指して旅したのでした。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に詳しいけれども、この巡礼には、たぶんに観光の要素が含まれていたようです。実際、ガイドブックまでが出版されたといいます。
当時、幕府の政策では庶民階層の移動は厳しく制限されており、物見遊山のためだけに旅することが難しかったなか、おかげまいりは、庶民が普段暮らしている場所を離れて旅をするための、絶好の口実となっていました。
こうした、宗教的な動機と観光の共存は、古典落語の演目「大山詣り」にも見出せます。
この噺には、江戸庶民の信仰の厚かった相模の大山阿夫利神社への巡礼を題材にし、呑んべえでケンカっぱやい江戸っ子たちの珍騒動が活写されています。その描写からは、神社への参拝だけでなく、旅のプロセスそのものが娯楽になっていたことがわかります。志ん生の名人芸はYouTubeで見ることができるので、ぜひ、ご賞覧を。
もっとも、江戸時代には、そもそも、純粋な観光旅行や純粋な巡礼は存在してなかったので(そんなものは庶民には許されていなかったのですよ)、両者は、結びついていたというよりも、未分化の状態にあったと言うべきですな。

ということを鑑みると、「観光」という行動は、現代の聖地巡礼について考えるうえで、重要なキーになります。

フランスを出発してスペイン北西部の大聖堂を目指すサンティアゴ・デ・コンポステラは、数百キロを数ヶ月かけて歩くという、時間的にも体力的にも厳しい巡礼です。1980年代には2000人程度だった巡礼者数が、今ではなんと、常に10万人を超えているといいます。僕も、いつかは行きたい。
数年前、僕の知り合いが、定年退職後にこの巡礼に向かいました。
彼は、信仰から巡礼をしたのかといえば、そうではない。熱心なキリスト信者でもないし、教会に足を運んだことがあるのかどうかも、怪しい。それでも彼は、この交通手段の発達した時代に、数百キロにおよぶ巡礼路を、あえて、徒歩で踏破した。もちろん彼は、自らを宗教的に高めるために、あえて自身に苦行を課したのではないのです。きわめて個人的な動機によって、それはおこなわれたようです。そして、そういう人は多いと聞きます。
そのような状況は、サンティアゴ・デ・コンポステラだけに見られるものではなく、遍路やパワースポット巡りなどにも似たような傾向が見出せます。

聖地には、すでに多くの観光客の姿があります。
一方で熱心な信仰を持つ人や、日常生活において宗教が中心になる場面は、減りつつあります。
たとえば、多くの日本人は、初詣、冠婚葬祭、旅行を除けば、神社仏閣にはあまり行かない。特に若い世代では、必ずしも家に仏壇や神棚があるわけではないし、朝夕それに手を合わせる人となると、ほとんどいないのではないか。そして、神社仏閣や教会を訪れる数少ない機会が、じつは、観光なのではないかと思うのです。
では、こうした「不信心者」が、雑誌やテレビを通じて「恋愛成就に効くパワースポット」としての鈴虫寺や地主神社を知り、そこを訪れたとすると、それは宗教的な巡礼なのだろうか、それとも観光なのだろうか。あるいは、この人は、巡礼者なのだろうか。それとも観光客なのだろうか。

そういうことを考えると、もはや、巡礼や聖地を、観光と宗教にはっきりと分化させることは無理筋です。

僕たちが生きる現代社会は、言うまでもなく、近代化を経て成立しました。
この近代化の歩みは、社会が宗教から解放される過程でもありました。簡単に言えば、このプロセスは、「世俗化」です。社会の大多数が超越的存在を信じていた状況から、社会の大多数がそれを信じなくなる状況への移行です。
現代社会とかつての前近代社会のあり方を比較してみると、よくわかります。

キリスト教を国教としてきたヨーロッパの多くの国では、どこに行っても、たいてい、その中心に教会が建てられています。一日のリズムは、教会の鐘によって管理され、毎週日曜の礼拝は単なる宗教儀礼ではなく、その参加者が教会を中心とするコミュニティの一員であることを確認する機能を持っていました。
日本では、江戸時代初期に、主にキリスト教の禁止を目的として寺請制度が敷かれ、現代の檀家制度に続く日本独特の仏教制度が生まれました。これは、事実上、仏教を国の宗教と定め、寺にコミュニティの管理を委託する施策でもありました。
前近代社会においては、宗教は、文字通り社会の中心に位置し、すみずみまで影響力を及ぼしていました。もちろん、なにからなにまで宗教一辺倒の世界だったわけではないにしても、法律は宗教的な倫理や規範の影響下にあり、宗教にとって代わる強力な世界観や価値観が他にあるわけではなかったですね。宗教が、天蓋のように、社会全体を覆っていました。

こうした宗教の支配や存在感が切り崩されるのが、世俗化です。
世俗化が進んだ社会では、生活のさまざまな局面で、合理的に考え、振る舞うことが求められます。結婚や葬式のような個人的に重大な出来事でも、宗教的な儀礼や手続きだけでは済まされません。役所で所定の手続きをおこなわなければ、それらは社会的に承認されません。
ヨーロッパでも、日曜礼拝に集まるのは一部の高齢者にかぎられているのが、今の現状です。
地方都市では、教会が売りに出され、サーカスの練習場やカーペット店に転用されることも珍しくないといいます(天井が高いから、そういう建物を求めている業界にとっては、教会は人気の物件)。
信じられないかもしれないけれども、イスラム増加傾向の今、昼間はキリスト教の礼拝をおこない、夜になるとイスラムの礼拝のためにレンタルされるケースすら報告されてます。

さて、宗教を前提としない世俗化社会は、支配的な価値観や文化がない社会ですな。
最低限のルールを定める法律を除けば、ある人がどのような倫理や規範に基いて振る舞うのかが、不明瞭な社会でもあります。殺人のような絶対悪の善悪の議論については、それほど必要ないかもしれない。
でも、尊厳死、中絶、同性婚、臓器移植、麻薬使用など、倫理や価値観が問われる問題については、誰がどのようなスタンスをとるのかは、まったくもって自明ではないですね。

世俗化によって、特定の宗教が公的な地位を失い、それによって価値観や世界観は多様化します。その結果、人々は、同じコミュニティに属しているという感覚を持つことが難しくなります。
そうした社会では、宗教が社会全体の方向性を決めることはないどころか、むしろ、政治や教育といった公的な領域から徐々に排除されます。区が発行にかかわる刊行物に宗教的なコンテンツがないのは、そのためです。
では、宗教は社会のなかでどのように位置付けられるかというと、人類学者のルックマンは、「宗教表象の詰め合わせ」と表しています。

ルックマンの著書『見えない宗教』から引きます。

宗教表象の詰め合わせ。
ルーズな聖なるコスモスは、消費者によって、全体として内面化されることはない。そうではなくて、「自律的」な消費者は、いろいろな宗教的主題を、提供されている詰め合わせから取捨選択し、それらを、やや心もとない個人の「究極的」意味体系にまとめ上げる。かくして、個人の宗教意識は、もはや「公的」モデルの複写ないし相似形とはならない。

つまり、特定宗教の共有がなくなった世俗化社会では、宗教は人々が個人的に振る舞ううえで参考にするために、その都度、任意に選んで購入する商品のようになる、と、彼は言っています。

その代表的なものは、おそらく、ヨガですな。
元来はインドの伝統的な宗教技法であったヨガは、70年代のスピリチュアル・ブームを経て、今では健康維持やダイエットのためにスポーツジムのプログラムとして提供されています。本格的な教義の勉強に進む人もいるだろうけれども、多くは、宗教とは無関係なものとして受け入れています。

さらに、このスピリチュアルという言葉がクセモノで、この言葉が用いられるときは、既存の宗教とはかかわりの薄い宗教性を指しているケースが多く、つまりは、スピリチュアリティとは、宗教の私事化の結果、伝統的な宗教組織の外側で生じた私的な信仰の多様性に対応する言葉、なのだと思います。

長々と社会における宗教の位置付けの変容について語ってきたけれども、聖地巡礼に戻ります。
現代の聖地巡礼は、これまで書いてきたような、宗教の私事化の影響を大きく受ける領域です。

伝統的に、聖地は、宗教制度や教団によって管理されてきました。聖地には、そこがなぜ特別なのかを語る物語が付属しています。宗教制度や教団は、そこにどのような物語を乗せるのかを決めることで、聖地の在りかたをコントールしてきたとも言えます。
どんな神社仏閣にもそれぞれに由緒があり、どのような経緯でその場所に神仏が祀られるようになったのかが、示されています。

たとえば、富士山は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)とかかわる場所であり、山そのものが浅間神社のご神体です。
たとえば、高野山の奥の院には、山を開いた開祖・弘法大師を祀る廟があるけれども、真言宗では、空海は亡くなったのではなくて入定したとされ、今でも祀のなかで瞑想を続けていると信じられています。そのため、空海のための食事を廟に運ぶ生身供(しょうじんく)の儀式が、今でも毎日続けられています。
というように、聖地は、その場を管理する宗教集団の神話や伝承と結びつくからこそ、特別な場所になり得るわけです。
でも、私事化が進む社会では、宗教集団が掲げる物語は、その場所にまつわる数ある物語のひとつにすぎなくなってしまいます。宗教集団に属さず、伝統的な信仰を持たない個々人が、さまざまな物語を聖地に持ち込むからです。

僕がおこなっている西国三十三所巡礼や、僕の知り合いがおこなったサンティアゴ・デ・コンポステラもまた、信仰なき巡礼です。こうした、信仰なき巡礼こそが、私事化の帰結であると、僕は考えます。
現代の巡礼者たちは、聖ヤコブに関するカトリック世界の物語を歴史的事実として受け入れているわけではないですね。空海の超人的な逸話の数々を、そのまま受け入れているわけではない。でも、巡礼によって精神を高めたり、自己実現を果たしたいと考える人は、増え続ける一方です。つまり、場所と伝統的な宗教の物語が区別して捉えられている、ということです。

おもしろい例を挙げます。
札幌に、明治に創建された北海道神宮があります。もともとはロシアに対する北方防衛の象徴としての意味合いを持った、政治的な色合いの濃い神社です。敷地内には、北海道発展の基礎を築いた人々を祭神とする開拓神社、鉱山での殉職者を祀る札幌鉱霊神社、北海道拓殖銀行の物故者を祀る穂多木神社があり、北海道の歴史と地域と強く反映した場所です。
ところが、です。この神社がここ数年、北海道最大のパワースポットとなっています。恋愛成就や金運向上のために良いエネルギーをもらえる場所だと信じて訪れる人が、増え続けているといいます。
さらに昨今の観光施策によって、北海道全体に台湾人やタイ人の観光客が増えたことで、北海道神宮は、外国人旅行者の観光ルートに組み込まれ、タイ語で書かれた絵馬が数多く奉納され、台湾語のおみくじまで用意されています。
このように、人々は、神道とも北方防衛や北海道開拓の記憶とも無関係に、北海道神宮を訪れるわけです。
パワースポットして北海道神宮を訪れる人々は、雑誌やテレビで流布される、パワーがもらえる!といった惹句に触れ、エネルギーをもらうために、イチョウや杉の大木に抱きつき、手をかざします。そこには、「気」や「不思議な力」といった、べつの文脈にあった概念が、神道の世界と結びつけられています。

現代の巡礼者は、メディアを通じて雑多な宗教的情報を獲得し、そのなかから自分の好みのものを取捨選択して組み合わせます。宗教の私事化、です。

パワースポット・ブームの背景には、自分の趣味や嗜好を重視する新しい宗教的感性の台頭があるのはまちがいないだろうし、私事化社会では、人は、既存の宗教の在りかたには満足せず、自己流の信念や実践をつくり出します。パワースポットは、そのトレンドのわかりやすい例です。

さらに言えば、聖地巡礼は、個々人の関心や価値観が細分化された社会にあって、共同性を生み出す契機にもなります。ある場所が聖地とされることで、そこに暮らす人々やそこを訪ねる人々が、場所に根ざしたアイデンティティや帰属感を持てるようになるかもしれない。

その一例は、アニメにおける聖地巡礼に見ることができます。
聖地巡礼型の観光のなかで、漫画やアニメ、ゲームなどに由来するものが、ここ数年、脚光を浴びています。
「らき☆すた」の埼玉県鷲宮町、「朝霧の巫女」の広島県三次市、「おねがい☆ティーチャー」の長野県大町市、「ひぐらしのなく頃に」の岐阜県白川村、「かんなぎ」の宮城県七ヶ浜町などなど。いくらでも挙げることができます。
古い人は覚えているかもしれないけれども、昭和50~60年代の漫画「軽井沢シンドローム」に描かれた喫茶店(軽井沢市)を訪ねる行為は、まごうことなき、聖地巡礼です。

この、サブカルチャーに由来する聖地巡礼型の観光の最大の特徴は、巡礼者/観光客が、その場所や地域への強い愛着を持っているため、受け入れ側である地域住民とのあいだで、地域の持つ価値が共有されやすいことにあります。
そのため、観光客と地域住民のあいだが単純な消費者と生産者の関係とはならず、協働の仕組みが構築されやすい構図になっていて、新しい可能性すら孕んでいます。
実際、鷲宮町では、巡礼者向けの催しを開催するだけでなく、ともに地域のお祭りを楽しんだりする動きもあるようです。




とまあ、そのような巡礼と聖地であれば、宗教と真正面から向き合うことなく、編集できるのではないか、と、挑んだのが、つひまぶ今号の「GOGO!巡礼」です。

ほんまは、全体を俯瞰するこのようなテキストを書きたかったんですが、そのスペースは到底なく、その代わりに、それぞれの事例を紹介することで、現代の巡礼がどんなものかを把握できるような編集を目指したのでした。
残念なのは、サブカルチャーの巡礼事例を挙げることができなかったこと。これ、北区内では見当たらないのです。
かろうじて、堂山は、LGBTの聖地となり得るかもしれない。たしかに堂山は、性的にマイノリティーの人たちが集まっているまちだし、全国的に認知されている場所ではあるけれども、彼ら彼女らのアジール(避難所)にはなっていても、聖地と呼べるほど雑多な人たちを惹きつけているかというと、そうではないと思うのですね。

今号の「GOGO!巡礼」特集は、太古から続く熊野修験の奥駈にはじまり、最後はお気楽に御朱印を並べてみせるフェティシズム全開の企画です。
宗教行事なのか観光なのかようわからんのが、巡礼です。
なので、それぞれの心構えでおこなえるのが、現代の巡礼であり、むかしからその傾向があったのが、巡礼です。

春です。
巡礼に出てみてください。

あ、冒頭に書いた、つひまぶで宗教色のあるコンテンツをどうしてもやりたかった理由。
これは、また機会をあらためて書きます。キーになるのは、大阪は商業都市であるだけでなく宗教都市でもあるということを、あたらめて紹介したかったから。五木寛之、内田樹、中沢新一の各氏が述べていることは、僕の捉える大阪と、ほぼ全面的に重なっています。


写真は、今号の特集で登場していただいた、中崎の山伏である青山さんが山伏仲間とおこなった、道頓堀六地蔵の巡礼でのひとこま。5年前のこと。
この写真からも、巡礼が純・宗教行事である以上のことが見えてくると思います。

2015年3月19日木曜日

4年目の3.11を迎えて、「キタの大火」を振り返る

4年前の3.11、東日本大震災がありました。
以降、全国であらためて防災意識が高まり、北区でも防災計画がまとめられています。
ハザードマップや防災マップなど、自助・共助のために知っておくべき情報も、区や市のHP等にたくさんアップされています。
そーゆー話を、前々回エントリのmikawanさんが、書いていました。

「区の広報誌で今、これから、もしもを「知る」」

なので僕は別方面から、キタの災害の歴史を。
たとえば、約300年前の宝永4年(1707年)に、宝永地震が発生しました。これは、南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定されており、記録に残る日本最大級の地震です。無論、大きな津波も発生し、大阪に大きな被害をもたらしたことが語り継がれています。堂島付近で、震度7ですよ!

水害だと、淀川ですね。明治18年(1885年)の淀川洪水では、キタもミナミもすっぽり浸水しています。新淀川開削、淀川の直線化、毛馬洗堰の設置など、大規模な改修事業で、大阪はその都度乗り越えてきたのでした。淀川先生バンザイ!

台風だと、昭和9年(1934年)の室戸台風。大阪直撃の大型台風で、被害甚大。豊崎小学校の校舎が倒壊して、児童19名が亡くなってます。曽根崎小学校、清美小学校の木造校舎も全壊。

とまあ、比較的災害の少ない大阪とはいえ、歴史的なスパンで見ると、大きな災害に何度も見舞われています。

なかでも、超ド級なのは、やっぱ、「キタの大火」。
キタの大火は、今から約100年前の明治42年(1909年)に発生した、北区の大半を焼き尽くした大火事です。
そのときの様子を伝える写真は消防署が何枚か持っていますが、以前、その複写をいただいたので、ここで放出します。


明治42年7月31日午前4時20分、北区空心町2-70(現在の扇町総合高校付近)のメリヤス業玉田庄太郎さん方から、出火。仕方がないとはいえ、こうして今も名前が残ってるのは、当人にとってはイヤでしょうな(笑)

出火と同時に市内はもちろん、隣接町村から警察、消防組が来援し消火に努めたのだけれども、メリヤスはほら、爆弾の原料にすらなるほど燃えやすい材料でもあることから、まず、付近の松ヶ枝小学校を類焼させて火勢を強め、たちまちのうちに、松ヶ枝町、壺屋町を襲い、河内町、此花町を火の海とします。メリヤスなので、たぶん、粉塵爆発もあったんじゃないでしょうか?




真夏の炎天続きでよく乾燥していたのと、強い東北の疾風に煽られて、この火が西へ西へと燃え広がっていったのでした。

その後、火の手は南北にわかれ、ひとつは此花町から北西に、もうひとつは南に進み、天満宮こそ消防手の必死の活動により難をのがれたけれども、天神橋筋2丁目から南森町を一掃し、午前11時30分には、天満堀川の岸に達します。

天満堀川を第1防火線としていたものの、その両岸にある竹屋が川中に差し出していた竹竿を伝って、火が西岸に移ります。こうやって写真を見ると、焼け残った家は、なぜ焼け残ったのか?と不思議に思えるほどの惨事です。




木造だった大江橋も、焼け落ちました。






天満堀川を超えると、そこは西天満。官公署や神社がひしめく場所です。西天満小学校が災禍に遭い、老松座、老松神社は全焼し、当時若松町にあった北区役所、さらには北警察署、大阪控訴院、地方裁判所も火災に包まれます。
それらをひと舐めし、大阪控訴院前の堂島浜一帯には、逃げ場を失った群衆がどっと詰めかけて、持ち出された家財道具なども散乱する大混雑となりました。
しかし、そのあいだも、うしろから風に煽られた火炎が迫ってくるわけです。焼死者はもちろん出るし、さながら地獄絵図のようだったとか。救援の船が次々に岸に横付けして、被災者の輸送にあたりました。

中之島公会堂が避難場所になってます。




西堀川方面の火勢は、東梅ヶ枝町、西梅ヶ枝町から北野に達し、第2防火線と頼んだ梅田新道も難なく突破し、午後8時30分、ついにお初天神が焼け落ち、その直後、蜆橋も焼け落ちました。






猛火はそれからも全然収まらず、北の新地(当時は、「北新地」ではなく「北の新地」と呼んでました)から堂島浜一帯を包み込んで、堂島米穀取引所、桜橋の劇場・福井座を焼き、曽根崎警察署と静観楼を半焼し、曽根崎川の橋などをことごとく焼き尽くします。






曽根崎新地の人たちは、船に家具を積んで火の粉が舞う曽根崎川を必死に西へ逃げたのでした。このとき、風速は毎秒17.3m~19.4mを記録し、火炎がうなりをあげて空に舞う状態やったそうです。




第3の防御線であった出入橋付近一帯の空き地、堂島割掘も火勢を阻むには至らず、そのころ、堂島浜通2丁目にあった市立高等商業高校、大阪府立測候所、知事官舎を総なめにし、福島区に入り、上福島1丁目、2丁目、3丁目、上福島中1丁目、2丁目、3丁目を焼き、上の天神、福島郵便局を焼失したのでした。




折りからの強風が衰えたのと消防の活躍によって、福島中の天神石垣から日本紡績会社の高塀に遮られて、ようやく鎮火。出火から約24時間後の8月1日午前4時のことでした。

出火とともに北警察署をはじめとする市内各警察署、消防のほか、知事の要請で陸軍第4師団の歩兵部隊も出動し、天満堀川西岸の第1防火線で民家の取り壊しなどにあたりました。これには師団長自らが出馬し、高槻工兵第4大隊、砲兵第4総隊、軽重兵第4大隊も破壊作業にあたり、出動兵力は3,394名に達しました。

下の図の黒く塗られたところが、火災に蹂躙されたエリアです。堂島川の北側、北区の東西にわたって被災していて、とんでもない超ど級の火事だったことが、この図からもわかります。




罹災面積は約37万坪。
東西1,850間。幅員の広いところで300間。
罹災町数51町。
焼失戸数11,365戸。
官公舎11、学校8、神社4、寺院16、銀行4、会社10、劇場2、病院1、料亭1、橋梁21。

大阪市は8月1日夜、臨時救護団を組織し、仏照寺(天満別院)、太融寺、曽根崎小学校、第一上福島小学校、市立金襴会高等女学校に救護団出張所を設け、負傷者の治療にあたるとともに、炊き出しを行ないました。このときに扱った傷病者は1,693人、重傷者は病院に収容しました。

また、この大火の報が伝わり、明治天皇は、8月6日、日野西侍従を差遣し罹災状況を視察させ、お見舞金として12,000円を下賜されてます。のちに、このお見舞金は、その達しの写しを添えて、全罹災世帯に1円ずつ分配されています。達しの写しが添えられていた、という配慮が泣かせます。天皇陛下の達しですから、お見舞金はもとより、この達しの写しは、再興への勇気を与えたでしょうな。

国内外から739,300円の義援金が寄せられ、一部を罹災者に分配するとともに、その残余金352,000円に同額の市費を加えて、恒久的な施設として財団法人弘済会が設立され、これが市立弘済会病院の発端となります。

全国から寄せられた援助物資については、臨時に市立高商跡にバラック倉庫を急造して保管し、10月10日から3次にわたって分配されました。

大火のあと、その瓦礫を利用して、曽根崎川が埋め立てられました。

また、この大火は当時の市民を大いに震え上がらせ、消防強化の世論となって沸騰し、これが契機となって、翌43年、大阪市消防規定が発布され、同年4月1日に大阪府北消防署が開庁するに至りました。

さらに、この焼け跡の土地を利用して、空心町から梅田新道を経て桜橋にいたる市電道路が敷設されることになり、明治44年7月に開通します。この道路が、のちに、国道1号線、2号線の中継点となったのでした。


キタの大火は、大阪の歴史を調べていると、すぐに遭遇する出来事だけれども、写真はあまり出まわっていないので、貴重なものやと思います。

防災対策を考える際、過去の災害史を振り返ることはとても有効だといいます。
未来に向けてなにかを考える際のヒントは、たいていの場合、過去にたくさん眠っています。
そんなことを思いながら、これからも、キタの歴史を掘り返していけたら、と思っています。

2015年3月16日月曜日

郷土研究「上方」にみる昭和初期のご長寿

以前にご紹介した郷土研究「上方」。
昭和12年1月号はなんと「上方長寿号」でした。
「上方」にはさまざまな特集号がありますが、今回はこちらをご紹介したいと思います。いずれ、「上方」の特集一覧みたいなのをつくりたいと思っている今日このごろです。余談ですが。



編集後記にあたる欄で、上方在住の長寿者は少なくないが、ただ歳を重ねているというだけでなく、なにか日々の仕事に精進を続けられている方が尊いと思い、心付いた人々だけを記録。年齢の基準は80歳以上としていることが明記されています。

三代目井上八千代さんは「百歳にして舞ふ」
四天王寺吉祥院三面大黒の福生講の講元・山崎文助翁は93歳
墨流加藤治翁は91歳
「上方」表紙絵を描く長谷川貞信翁は90歳
箏曲会の最長老・中平福之都さんは86歳
新聞界の長老・小西勝一翁は80歳
舞嫗佐藤くにさんは80歳

など、現役で活躍されている方々ばかり。もちろん、昭和初期にこの年齢なので、生まれは明治ではなく江戸時代。「嘉永」「弘化」「天保」などとあります。江戸から明治、大正、昭和を経ているいま、江戸時代のことが、余計に遠く、現代とはかけ離れていると思いがちですが、「上方」をみていると、とても近い時代のことのように感じられます。たとえば、「上方」表紙絵の長谷川貞信翁の話のなかにこんなくだりがあります。

梅田から神戸へ汽車が開通したのはたしか明治六七年の頃かと思ひますが、その頃私は神戸の商館へ茶箱の書を描きによく参って居りましたので、開通早々一番に初乗りをいたしました。いつも神戸へ参りますと一ニ泊止りでしたが、汽車のお蔭で朝行って午後に用済みで宅へ帰りますと、驚いたのは両親で(初代貞信)お前どこへ行ったのや神戸やないかと不審そうに尋ねますから、ヘイ汽車が出来ましたから乗って来ましたと申ますと、母は呆れて、この児はまア大胆なそんなものに乗ってどうするのやと大変に叱られました事を思ひ出します。近頃孫が一度飛行機に乗りたいと申しますから私が一番に止めましたが、よく考へて見ると時代がそれだけ変って来たことをハッキリ判ります。

時代の変化を肌身に感じる時代だったことがよくわかります。

また、舞嫗佐藤くにさんの逸話では、くにさんが三度の飯より藝ごとがすきで、(六代目)菊五郎の芝居は名古屋、東京まで観にいっていたことや、東京の藝である長唄、清元、常磐津などを北新地に移したこと、それから全大阪の花街伝わっていったことなどが記録されています。こんな話を読むとまたおもしろいですね。

隙間に描かれている「萬歳 アーラ目出度や 鶴は千年亀は萬年東方朔は九千歳ポンポン」というのもめでたく面白く、にんまりしてしまいます。



人だけでなく、長寿にまつわるさまざまな見出しをみていると、ついつい引き込まれてしまいます。
上方における老樹名木など、いまどうなっているのか気になります。
ここに記載されている名木巡りをしてみたくなりますね。
そんなお話はまたいづれ

2015年3月12日木曜日

区の広報誌で今、これから、もしもを「知る」

真冬に逆戻りのような寒さで雪も降った今週ですが、これからが「三寒四温」といわれるように寒暖差が大きい時期ですので、体調管理は万全に。

さて、みなさんは区の情報をどこから入手しますか?
知っている方も多いと思いますが、
北区役所では「わがまち北区」という広報誌を月に1回発行しています。

以前は、宅配新聞の折込みで入っていたのですが、昨年より北区全戸配布になったため、自宅のポストで見かけるようになったのではないでしょうか?

この広報誌、読むといろいろな情報というか、大阪市、また北区に住むうえで必要な情報がテンコ盛りです!

現在発行されている3月号を見ると、トップは「災害に強いまちづくり」という記事でした。
昨日3月11日は、みなさんもご存じのとおり、東日本大震災の発生から4年目となる日でした。
現在、関西地区を含めた、東海、東南海、南海地域では「南海トラフ巨大地震」が発生する可能性が、今後30年のあいだに60~80%の確率で起きると予想されています。
北区でも、津波浸水エリアに指定されたことにともなう対策を進めている実例をここでは紹介しています。
北区に住んでいたり遊びに来るうえで、もしもの時に自分たちはどのように行動したらよいか、どのような想定がされているかをまず「知る」ことが大事だと考えます。
知っているのと知らないのでは、以降の行動が俄然変わってくると思いますから。
そのきっかけになるような記事が載っていました。

また、区内で行われる催しや市内の広報も告知されており、読み始めると思わず参加したくなることや、こんなことまで行政はおこなっているのか~!なんて読んでいくと、結構ボリュームがあるとともに、まず知っていて覚えておくと後日にでも役に立つ情報がテンコ盛りだったのでした。

北区以外に在住している方は、区役所や北区内主要駅にも置いてありますので、自宅に持って帰って読むのもよし、電車の中で読むのもよいかと思います。

また、大阪市のウェブサイトには、北区だけでなく市内24区の広報誌が読めるって知っていました?
こちらも興味があれば読んでみるのもよいですね!

役立つ広報テンコ盛りの「わがまち北区」とともに、ネットに載らない情報テンコ盛りの「つひまぶ」も引き続きご愛読いただきますようお願いします!

2015年3月11日水曜日

市電と接続さえしていればいいメソッド(後編)

さて、最後の章になります。

このブログ、関係者のみアクセス数というのもが見れるのですが、前回、前々回のアクセス数がすこぶる悪いのですw
これは、あまりにもマニアックすぎて、あまりにも長ったらしいのが関係しているんだろうなー。と、思います。まあ、ある程度想定していたんですけどね。
本日は戦後のお話になるのですが、これは、現役世代にも関係してくる話になるので、簡素にまとめたいと思います。


民営バス会社がどうやって市内に乗り入れたのか。戦後のお話。

終戦直後北区内には以下のような路線がありました

長柄橋南詰-野田阪神前(阪神乗合自動車・休止していたらしい)
梅田新道-佃町-尼崎方面(阪神国道バス)
東野田町4丁目-鶴見町-大東方面(近畿日本鉄道・東野田付近は、昭和19年に北区から都島区に分区)



終戦直後は大混乱の中、鉄道も相次ぐ戦災で荒廃しており、輸送力の増強が必要な時代。しかし、物資もなく、限界の状況だったようで、そこでバスを代替輸送として走らそうというアイデアを思いついたようです。昭和21年頃のお話。
この頃は、「市電と接続さえしていればいい」メソッドはなくなってしまったんでしょうかね。なし崩し的になったという考え方も出来ますか。

そうなると、大阪市内に民間バスの停留所ができてしまうと、大阪市が難色を示します。
こうあると埒があかないので、許認可の権限があった大阪府と運輸省が仲裁に入り、とにかく、電車ターミナルまでなら問題ないだろって事で、阪急バスと京阪自動車(当時鉄道は阪急に統合されていたけど、バスは統合されていなかった)が、それぞれ梅田、天満橋まで乗り入れてくるのです。(昭和25年に、遅れて天六まで乗り入れ)

その後、昭和23年頃に、今度は乗客の利便を考えて難波まで乗り入れたい。近鉄は大阪駅までとか言うもんだから、またここでも一悶着。
鉄道の補完的役割としてバス路線開設したんやろ。それは絶対に認めん。と、強固に反対する大阪市。このあたりから、大阪市と民間バス会社でドロドロとした因縁めいたものが生まれてしまいます。
特に、国道26号線の難波-西住之江間の南海バスのやりとりは、トロリーバスの問題もあって、行政訴訟にまで発展する有様なんですが、このブログでは直接関係しないので割愛します。

結局は、個別に運輸協定を結んで、大阪市のバスも市外に乗り出す路線を認めるとともに、民間バス会社も市の中心部にバスターミナルを作って、そこまで乗り入れるとの運輸省裁定が下されたのです。
この時代に近鉄バスが梅田まで乗り入れることになります。


その後、昭和40年代になると、走行環境が悪化してきたのか、相次ぐ撤退が始まります。
まず、バスターミナルが東区内本町という、中心部からずれたところにあって使い勝手が悪かったようで、大阪万博直前の、4大幹線一方通行化に合わせて閉鎖。このあたりで天六を通過する阪急バス路線が廃止、天満橋を通過する京阪バスが京橋起点に短縮されます。
日本初のハイウェー、国道2号線を走る阪神バスも、昭和47年に梅田新道から撤退。阪神野田に起点が移ります。
その後、阪神北大阪線廃止に伴う代替バスなどが出来ますが、相次ぐ減便・撤退などが重なって、今元気なのは梅田を起点としている阪急バスくらいしかありませんね。




このように、歴史を紐解くと、いろんなお話があるわけなんです。
まあ、自己満足の世界なんですけど、こういう歴史を調べるというのは大変面白い。先代が苦闘したドラマをのぞき見するのは、小説よりも重くて親近感が湧くんですね。
また機会があれば、他の分野でも同じ事したいですねー


長々とおつきあいいただきましてありがとうございました。ブログとしては長々とした駄文になってしまった感がありますが、検索で来られた方に、少しでも資料として提供出来るのであればこの上ない幸せ。
参考文献は、阪神国道の開通部分以外は書籍からネタを仕入れております。ご一報いただけたら開示させていただきます。

2015年3月10日火曜日

「市電と接続さえしていればいい」メソッド(中編)

本日は、前回の続きです。
民間のバス会社が、いかにして大阪市内に路線を伸ばしているのかをご紹介しています。
前回は、長柄橋と十三大橋から来るバスのお話をしましたが、あと3つもあります。




3)昭和のハイウェー。国道2号線

バスの話をする前に、道路の話をしておかなければなりません。

日本の自動車道路の幕開けはどこかと聞かれたら、名神高速道路尼崎-栗東間を挙げる人も多いかと思います。日本の本格的な高速自動車国道の第1号区間ですから当然ですし、高度経済成長を支えた立役者でもありますからね。
しかし、私はあえて国道2号線の「阪神国道」を挙げたいと思います。

明治・大正時代の日本の道路というのは、全くをもって酷い道で、「一級国道」という都市と都市を結ぶ重要路線ですら、昔の街道をそっくりそのまま国道指定しただけ。途中の町中では荷車が通るのがやっと。東京-横浜などの最重要区間でも、一部を除き舗装道路がないなど、おおよそ「一級に嘘偽りあり」みたいな道路だったのです。当時は鉄道を優先して敷設するという方針があったから仕方ないのですが、有事のことを考えると大変問題で、産業振興にも大いに不利です。そとで、大正8年に道路法が制定され、道路整備に取りかかるのでした。

そのモデルケースというわけではありませんが、大正15年に、大阪梅田新道から神戸三宮までの阪神国道が完成します。ほぼ直線的な道路、幅員15~18メートルの広大さ(電車道含まず)、全線舗装、中央に郊外電車(阪神国道線ですな)を配置するという、新しい都市間「ハイウェー」として、国道としての新たな幕が上がります。
「道路が直線」ということが自慢になるくらいのどうろですから、今までの道は何だったの?というくらい今までの道が酷かった。そして、阪神国道の期待がすごいのがわかっていただけるでしょう。


さあ、そんな新しい道路にバスを走らせないわけがない。大正末期に新しい交通機関として登場したバス。そのバス事業にひとりの男がベンチャー企業を立ち上げて、バス事業の免許を申請したのです。
当時のバス事業はベンチャーなんですよ。すごいですねー
でも、その免許申請を黙っていないのが二点間を鉄道で結ぶ阪急と阪神。鉄道事業を脅かすかもしれないバスに戦々恐々としているのでした。しかし、関連会社がすでにバスを運転しているということもあり、どうせならバスも関連会社で統一をとばかりに同じ申請を出す有様。これでは競合・共倒れという事態も起こりかねません。当時の監督庁内務省の指導もあり、申請を一本化して、阪神国道バス(通称阪国バス)を作り、仲良くベンチャーの男と、阪急・阪神が株を分け合って設立します。

そういう事情があるこのバス会社、国道2号線を忠実に走るということで、この路線は「市電と接続さえしていればいい」メソッドは通用しないんですね。しかも、ターミナル近くである梅田新道まで難なく到達している訳ですから。
なお、梅新交差点から神戸の三ノ宮まで、1日約60本程度が運行されていたそう。その後の諸事情で、ベンチャーの男が阪神電鉄に株式を売却、阪神合同バス(現在の阪急バス)も経営から身を引いたので、実質阪神が経営するようになります。



4)戦前は紳士協定。戦後は血みどろの戦い。国道1号線

国道2号線は新しい道路の開通で路線が開設されましたが、国道1号線はどうでしょうか。前回の冒頭でもご紹介した近鉄バスが走っています。
ここに何故近鉄バスが走っているのかは、昭和の大軌(近鉄)・京阪・奈良電(近鉄京都線)・国鉄片町線の、複雑に絡まる利権の奪い合いの産物だったということ。
この話は大変興味深く、これだけで1冊書けるくらいの分量になってしまうくらいあるのです。面白い話なのですが、ばっさり割愛いたします。残念です。

一言で言えば、片町線と京阪本線の間にある鉄道空白区。ここに鉄道を誰が敷くかという話なのです。結局、最初に許可が下りた大軌(近鉄)が早急に建設に取りかかったものの、片町線の電化に阻まれ開通出来なかったようです。
で、その後、郊外には鉄道を通す用地買収はすでに済んでいて、それをどうするかが問題になっていました。が、この土地を道路に転用する方向でまとまり、地元の方は産業道路などと呼んでいるみたいですが、阪奈道路、大阪生駒線が開通することとなります。今福鶴見から寺川あたりまでの道路がその転用区間で、その昔「大軌四條畷線」のなれの果てだったと思うと感慨深いですね。

そういう事情もあり、昭和15年に近鉄バスが路線を開設します。当然でしょうね。
免許区間は蒲生4丁目が起点。その西側は、すでに大阪市が免許を持っていたため、ここでも「市電に接続さえしていればいい」メソッドが発動して、市バスと相互乗り入れをすることに。近鉄バスは市電の最寄りの東野田4丁目(現在の東野田)まで、市バスは市の境界であった鶴見町まで乗り入れたようです。


5)謎な路線京阪バス

さて、お待たせしました。最後です。
北区周辺のお話なのに、何故か京阪バスが出てこない。京阪も、国道1号線を使って近年まで京橋まで乗り入れていたのに全く話にあがってこない。
京阪も、実は戦前に路線を持っていました。
しかし、情報がまるでない。

空心町2丁目を起点として、淀川橋を超えて大川左岸を北上し、毛馬の閘門手前で曲がり、赤川町8丁目(現在の赤川1丁目付近)に至る路線を開設していたようなのです。

淀川橋は、以前このブログでも紹介しました。

地図に「知らない橋」が描かれてあったので現地に見に行ってみたら

この道路を通っていたようです。

これ以上の情報が全くありません。いつ開設されたのか、いつ頃まで走っていたのか、定かではありません。何か情報をお持ちの方は、ぜひお知らせいただけると幸いです。
捕捉しておきますと、当時の京阪電車は天満橋のターミナル(当時OMMビルにあった)が手狭で、新たなターミナルを梅田に置きたかったようす。このため、このあたりに新線の計画を持っており、そのためのバス路線開設だったのではと推測しているのですが、それすら断定することができません。どうぞよろしくお願いします。


以上が戦前の大阪市内、主に梅田近辺での民間バスに関するお話でした。阪国バスを除き、全てが「市電と接続さえしていればいい」メソッドを充分に活用し、大阪市内までの輸送を確保していたんだなあということがおわかりいただけたかと思います。

その後、時代は戦争へと移り変わります。日中戦争から太平洋戦争へ。そして、物資の配給制となり、バスの輸送は困難を極め、さらに追い打ちをかけるように、資材難が襲ってきます。
当時の資料は、私は調べた事はまだありません。資料らしい資料が残っているとは思えないからです。公文書ですら出てこない事が多いですからね。あきらめました。

話は戦後へと移りたいと思いますが、ちょうど、区切りもいいことですし、また、後日、改めさせていただこうと思います。
あまりにも長すぎで、引っ張りすぎとは思いますが、もう止まりません。(笑)

2015年3月9日月曜日

「市電と接続さえしていればいい」メソッド(前編)

3月というと、鉄道やバスなどの交通機関のダイヤ改正が行われる季節。全国を走るJRグループがダイヤ改正するのに合わせ、各鉄道・バス会社までもがこの時期に合わせるからのようです。これ、なんでかというと、ダイヤというのは色々な要素が複雑に絡んでくるので、1つの鉄道会社が単独で出来ないんですね。単独でダイヤ改正なんかをやると、他会社の列車に乗り継げないなんていう事が起こるわけ。それだけなら利用者の方で対応すればいいんですけど、乗り換えられる方の鉄道会社の方では、特定の列車に乗客が集中してしまって遅れの原因を作ってしまうこともあるとか。なので、各会社と調整しながらダイヤを作っているそうです。こういう調整がとにかく大事なようです。

さて、3月21日に、近鉄バスでもダイヤが変わります。北区内では阪奈線という梅田から東大阪稲田まで走る路線がありますが、(昔は奈良まで行ってたんですけどね) ここでは全時間帯30分に一本という減便が行われます。つい10年ほど前は15分間隔、朝夕ラッシュ時には10分以内にやって来た程度の本数があったんですけど、今回は朝夕関係なく30分ヘッドということになり、通勤需要もここまで落ちたかっていうレベルになりました。(最盛期は朝ラッシュ時に2分間隔で走っていたとのことです。すごいわ)15分間隔から20分間隔になった場合、乗客の逸走は半分にまで落ち込むとデータがあるんですが、30分間隔ではかなり厳しいんじゃないかなと危惧しております。

前置きが長くなりました。


そもそも、この近鉄バス。大阪市内なのに近鉄バスが走る珍しい区間ですね。上六や阿部野橋、平野区あたりで近鉄バスは走ってはいるものの、ごく限られた場所でしかお目にかかれません。市中心部から郊外区間までロングラン運転しているのはすでにここだけになっています。
何故、大阪市内に民間バス会社の路線が存在しているのか。現在でも阪急バスや阪神バスなども北区内には走っていますので、今日はそのあたりを含めて、戦前、いやはや、バス誕生の黎明期からのお話をしたいと思います。


なお、かなーりマニアックなので、皆さんがついてこられるか心配です。でも、今回はやらせてもらいますw
また、画像や写真を用意しておりません。ちょっと難しい内容になるかもしれませんがご了解ください。
さらに、今回無茶苦茶長くなっていますので、前後半でご紹介いたします。本日は前半です。
戦前から終戦直後あたりのお話をできればと思っています。
それでは、スタート。




大阪市内は、乗合バスというと、今ではほぼ大阪市バスが独占しています。よく、「市営モンロー主義」とか言われていますが、これ、経営者側の言い訳なんです。これが悪なわけじゃないんです。当時の大阪では、市民は電車(市電のことを当時は電車と言った)・バス・地下鉄というのは、社会インフラという認識をしていて、大阪市が高い金を出して作った道路にバスを走らせて料金収入を得ることは極めて妥当であって、そんな道路に民間会社のバスなどが走るのはまかりならん。と考えていたようです。
これは、大正時代に象徴される「自由民権運動」の成熟期とほぼ重なり、大変市民には浸透していた考え方だったようです。今では考えられないことですが、当時は郷土愛や愛国心が高かった時代を象徴しているようです。
ですから、「市営モンロー主義」は、ネガティブ表現ではなく、単に市民の誇りを表現した単語であるということを公表しておきたいと思います。

また、戦後はエリア1事業者制という運輸省の方針で、大阪市内は大阪市が優先的に運営を任せられることになり、この「市営モンロー主義」が確固たるものになり、ネットワークが形成されることになります。


ようやくここからが本題。


では、バス黎明期の大阪はどうだったの?そして、今日のタイトルでもある。民営バスはどうやって路線を伸ばしたの?
大阪の街中を最初に走ったバスは民間会社のバスでした。大阪乗合自動車(通称青バス)が本格的に営業を開始しました。これは多くの方々がご存じでしょう。大阪の歴史でバスの話題を紐解くと、まず誰もが目にする話ですから。
ですので、この話は端折ります。(笑)
北区に関係あるのは太融寺車庫くらいですし。(太融寺近辺に市バスの車庫や青バスの車庫があったの、ご存じ?)


大阪市中心部には市バスと青バスしか存在しなかったので、郊外のバス会社がどのように変遷したかを見てみることにします。



1)越すに越されぬ長柄橋

北摂から市内、北区に乗り入れるには、淀川を超えなければなりません。そのうちのひとつ、長柄橋。
今では民間会社が乗り入れていない長柄橋ですが、戦後すぐに、阪急バスが天六から高槻あたりまで路線を延ばしています。しかし、戦前は全く違っていたのでした。


昭和2年に、高槻の唐崎あたりの住人が経営する小さなバス会社が誕生します。唐崎・柱本から長柄橋北詰まで、淀川の堤防を利用して、1日3往復のささやかな路線が誕生しました。
バス黎明期(大正末期から昭和初め)には、このように、個人経営のバス会社が多く登場します。ただ、昭和の大恐慌や、自動車の維持管理という設備資本に耐えられなかったのか、数年で廃業したり、別会社に吸収されたりして、ほとんどが残らなかったようです。
おなじく、長柄橋北詰を起点として、淀川乗合自動車(現在の神戸の阪神タクシー、バス経営権は阪神バスに譲渡)が、これまた淀川の堤防を使い姫島まで、そこから梅田街道を走って辰巳橋(現在も左門殿川にかかる国道43号線の橋)までの路線を開設してます。
両者とも、長柄橋を起点にしていたのは、「市電と接続さえしていればいい」メソッドが発動されてからに他なりません。

この、「市電と接続さえしていればいい」メソッドは、昔は大変重要であったらしく、いろんな場所で見かけます。今の地下鉄と同じくらい重要視されていたのだと思います。
北摂からだと、長柄橋、野田阪神電車前(現:野田阪神)、大阪駅前が候補に挙がるのでしょうが、大阪駅に直接乗り入れる道路がなく、野田阪神も、この後お話しする阪神国道の免許関係もあって、市電と接続できるのは、長柄橋だけでした。しかも、市電が延長されたのは昭和2年。バス路線が誕生した時期とぴったり重なるんです。市電が長柄橋に延長されると同時に開設されるバス路線。何か、今でも、地下鉄や駅ができると開設されるバス路線がありますが、当時からしている事を発見してびっくりしましたよ。乗り換え需要があると思っていたのでしょうか。

この時点では、バスは長柄橋北詰が終点。市電は南詰めまで。徒歩連絡をして市電に乗り換えていたようです。この理由はわかっていません。当時の長柄橋は、まだ東海道線の単線の鉄道橋を転用した物で、幅員が足りないと判断したんでしょうか。あくまでも想像ですが。
しかし、2年後にバスが長柄橋南詰まで乗り入れて、市電と乗り換えが便利になりました。

それもつかの間、唐崎の個人経営のバス会社の経営がおぼつかなかったのか、起点を省線吹田駅に短縮させてしまいます。「市電と接続さえしていればいい」メソッドよりも、国鉄に接続して、運行距離を短くすることを選んだようです。この路線は、その後紆余曲折もあり、現在は阪急バスの吹田摂津線として今も残っています。
淀川乗合自動車の方は、戦後に天六まで路線を延ばしますが、1日7本という過疎路線。野田で系統が分断されて残りますが、30年代頃に阪神のバス部門を整理統合するにあたり、いつの間にか消滅してしまいます。1日7本では人々の記憶には残らないんだろうな。



2)十三大橋

北摂から来るバスが乗り入れるには、十三大橋を外せないんじゃないかな?などとお思いの方。残念でした。
まだ、昭和の初めは十三大橋は鉄橋であるものの、神崎橋に架かる橋がことごとく木橋でバスが通れないので、民間会社のバスが乗り入れた記録がありません。
現在では、阪急バスが頻発しており、梅田を起点に箕面まで行っていますね。

戦前は、その阪急バス(当時は阪急合同バス)が十三を起点にして、製薬会社が多く進出してきた加島・神崎橋へのピストン輸送をしていました。今でも神崎橋までは、朝ラッシュ時に3分半間隔を維持していて活況を呈していますが、当時でも1日100往復以上していたというから、相当に需要のある区間でした。一部は加島から阪神千船駅まで走っていたようです。

阪急バスは「市電と接続さえしていればいい」メソッドは発動させなかったの?
いい質問ですねー(池上彰風に)
まあ、阪急バスですから、「阪急と接続させればいい」メソッドではなかったのかなと。(笑) もうひとつは、残念ながら、まだこの時期に中津高架橋が完成しておらず、(全通は昭和16年だったように思うけど、これは自信がありません。誰か調べて~) 梅田などに直接乗り入れる道路がなかったため。また、十三と加島の往復に資源を集中していたんでしょうね。賢いやり方だと思います。


あ、そうそう。この区間で「市電と接続していればいいや」的な路線は、大阪市バスがやっています。東淀川区三国町内やまだ完成してもいない新三国橋から、十三大橋を超え福島西通に向かう路線。これ、今の39号系統のご先祖様ですね。十三からだと梅田を目指せよと思いますが、前述の通り、道路がないので、仕方なく市電の通る福島西通まで走らせました。


(阪急バス加島線に関しては、私の個人ブログでまち歩きをした時のレポがありますので参考にどうぞ http://namihyanote.hatenadiary.jp/entry/2014/12/09/170000




えー、皆さん。付いてきていますか?
内容は理解出来ていますでしょうか。
長くなりましたので、この辺で前半終了したいと思います。

全体の半分はお話し出来たと思うのですが、まだ戦後のお話がまだ書けておりませんので(汗 もしかすると、3部作になるかもしれません。



「市電と接続さえしていればいい」メソッド(前編)
http://tsuhimabu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_10.html

「市電と接続さえしていればいい」メソッド(中編)
http://tsuhimabu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_11.html

2015年3月5日木曜日

京野菜でビタミンチャージ! おすすめランチのお店♪


ずいぶんと寒さもマシになり、春がもうすぐだな〜と感じる今日この頃。
春が待ち遠しい反面、年度末の忙しさで時間がもっとあれば良いのに!
と、もがいているヨリトモです。

ノマドワークが多い私ですが、
一応、事務所は大阪天満宮のすぐ傍にあり、
事務所から近くのおすすめランチスポットをご紹介します!

今年に入って3回は行っている、最近のお気に入り!
『RYOKU-EN(緑縁)』さんです!

ランチは、ご飯ものはガパオライス、パスタは2種類から選べます。
ご飯、パスタ共に食べてみましたが、どちらもGOOD
100円プラスで大盛りにもできますよ〜。

メインもさることながら、
最もおすすめしたいポイントは、
新鮮京野菜のスープとお皿いっぱいのサラダ!

スープはシンプルだけど幸せになる味。
きちんと出汁をお店でとられているのが分かる美味しさ!
(こないだ行った時は、鯛の出汁で菜の花が入っていました。パスタが鯛だったから、そのアラでとられたのかな?)

そして一押しはサラダです!
ランチのサラダでこんなに美味しいのは、初めて!と思うくらい。
根菜から葉物まで、
季節や仕入れによって日々色んなお野菜がいっぱいに盛られてやってきます。
もちろんドレッシングも美味しいんですが、
新鮮なので、素材そのもののお野菜の味で十分なほど。
本当にお昼休みに幸せになれるサラダなんです。
/ 
いやー、ここまで来て、写真写真。。
ない。。いつもの悪い癖で、出てくるとすぐに食べてしまうのです。。
反省。。。つひまブログの為に次回からは、
バッチリ食べるまでに写真を撮ります!

食べ物ネタなのに写真なし。。。
本当にすみません。
でも、逆に気になってはきませんか??笑

大阪天満宮の東側なので、
天満宮にお参りに来られた際にも是非おたちより下さい〜


RYOKU-EN(緑縁)
大阪市北区天満4-16-5 あんじんビル1F
定休日:日曜、祝日
※写真はブログや食べログでチェックしてみて下さいね。

2015年3月2日月曜日

昭和は遠くなりにけり・・・

全国各地で昭和が消えつつあります。
大阪でもたくさん消えていますが、今また北区が注目されています。
大阪駅周辺では阪神百貨店が大規模な建て替えをします。

この阪神百貨店にCMソングがあったのをご存じ?
1970年代なので、ご存知な方は50代以上だと思いますが・・・

♪幸せを包むグリーンのクローバー
 真心が通う阪神のお買いもの
 シックなムードがあふれる阪神
 明るく元気な阪神、阪神、大阪梅田1番地♪

作詞:野坂昭如 作曲:いずみたく 歌:由紀さおり
テレビで流れていた懐かしいCMソング
今回の阪神百貨店の建て替えは、この歌詞にある「梅田1丁目1番地計画」というそうです。

この「梅田1丁目1番地計画」で阪神百貨店と新阪急ビルが建て替えられ、
そして阪神百貨店前は地上も地下も大きく変わります。
そのため2月17日をもって阪神百貨店地下1Fスナックパークは終了しました。
庶民派、阪神百貨店のシンボルのような場所で、電車に乗る前など時間のないときには、
さっと食べれて重宝したものです。
2月に入ってからは大にぎわい、連日長蛇の列。
無くなるというとみんな押し寄せるんですね。
建て替えられた店舗では、スナックパークは復活するのでしょうか。
阪神のカラーは残してほしいと思う人は多いはず・・・


阪神百貨店地下1階通路前にあった都道府県の名産品の商店、通称アリバイ通り。
旅行や出張で買い忘れたり、買えなかったお土産を買ったり、
あるいは旅行に行ったことにして、ここでお土産を買うというアリバイ工作に貢献するという、
ありがた~いお店でした。
壁に貼りつけたように商品が並んで、椅子に座っているおばさんたちと話しながら買い物ができ、
地方出身の人にとっては、故郷を思い出す懐かしいお店だと聞いたことがありました。

連日行列ができてニュースでも取り上げられた「串カツ松葉」、とうとう裁判になってしまいました。
大阪駅からの階段を降りる時、あの油の匂いに引き込まれる人も多いんじゃないでしょうか。
混雑時にはひとりでも多く入ってもらえるように体を斜めにして立ちます。
これを通称ダークダックススタイルというそうです。
ダークダックスは男性4人のコーラスで、昭和を代表する歌手でした。
彼らが歌う時のスタイルと同じなのでついた名前です。

四ツ橋線側のぶらり横丁も2軒だけが営業中
昭和の高度成長期、仕事帰りのお父さんたちがちょっと一杯飲んで帰るという癒しの場、交流の場だったでしょうね。

「梅田1丁目1番地計画」の完成予想図が貼られていました。
御堂筋線改札前、阪神百貨店地下東側出入り口前は東広場になります。
阪神百貨店地下西側出入り口前は中央広場になり、四つ橋線へ向け広い通路になります。
阪神電車西改札前は西広場になります。
それぞれ広い空間があり通路が広くなり、行き来がしやすくなります。
街が美しく整備され、便利になっていくことはとても良いことですが、
失われていくものに寂しさを感じます。

スナックパークのイカ焼き、御座候、ちょぼ焼きは西側に場所を変えて継続中、良かったぁ~♪
最後に心配がひとつ、阪神電車改札横のミックスジュースはどうなるのでしょうか・・・

平成27年、昭和は遠くなりにけり・・・
寂しいですが、新しい「梅田1丁目1番地」どうなるのか楽しみにしましょう!