2014年10月2日木曜日

大阪冬の陣400年、中之島にも残る痕跡は天満宮の恩人が残したもの

今年は大阪冬の陣から400年にあたります。
中之島にも豊臣家ゆかりのものがあります。


東洋陶磁美術館の東側にある石碑には、「木邨長門守重成」と書かれている。
木邨長門守重成は、豊臣秀頼の幼なじみであり家臣として、大阪夏の陣八尾・若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝軍との激戦の末、21歳という若さで討死にしました。
常に自分の髪にお香を焚きこめてあったので、
討ち取られた首を見た家康は、その美しさと髪から漂う香りに見事と感嘆したと言われている。

なぜ、ここに石碑のみがあるのか、
中之島は江戸時代この辺りが東端で山崎の鼻と言われていた。
山崎の鼻とは山崎藩があった場所、江戸時代の中之島には各藩蔵屋敷がたくさんあった。

明治維新後、各藩蔵屋敷跡には公の建物や学校、近代ホテルや料亭が並んでいた。
今は大阪城にある豊国神社もこの中之島にあったが、中之島公会堂建設にともない移転し、この碑だけが残されて今に至っている。

ではこの碑は誰によって建立されたのか


発起人としてふたりの名前が石碑に刻まれています。
西邨捨三(六代目大阪府知事)は、歌舞伎「茶臼山血判取」で市川新蔵が演じた木邨長門守に感動し、豊臣家縁の旧藩主に石碑建立の賛同と資金得た。
これに感動した9代目市川団十郎も資金提供し、メドが立ったところで知り合いの小林佐兵衛に石碑建立を依頼した。
小林佐兵衛は安治川口に沈んでいた大阪城の残念石を引き上げ寄付し、当時中之島にあった豊国神社の前にこの石碑を建立した。

小林佐兵衛は明治の侠客、司馬遼太郎の小説「俄」の主人公明石屋万吉のモデルと言われた人物である。
火消しから社会事業までさまざまなことに私財を投げ打って取り組んだ。
特に、明治42年「北の大火」で天満宮を守ったことは、今でも寺井家(天満宮宮司)では恩を忘れてはならないと語り継がれているという。