2014年5月8日木曜日

地図に「知らない橋」が描かれてあったので現地に見に行ってみたら


ゴールデンウィークも終わり、「さて、次の連休はいつかな~」と指折り数えていると、70日先まで祝日がないという事が発覚した今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、なみはやノーツです。
まさに5月から7月までは「死のロード」ですよ。毎月、1日くらいは祝日があるのに、この時期だけは何故国民の祝日がないのでありましょうか。嘆かわしいではないですか。山の日(8月11日)もいいんですが、この梅雨時あたりに、何か適当にお祝いの日をでっち上げて、祝日を勝ち取りましょう!

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地図、好きですよね?
何度見ても見飽きない、あの魅惑の地図です。ええ、私は大好きです。道路地図を見るだけで1時間は普通に暇をつぶせるくらい、地図とは友達であります。
Σ(゚д゚) エッ!?
地図、あんまり好きじゃないって?うーん、もったいない。地図は魅惑の書物なのに……

そんな地図好きの私が、かなり前の話になるんですけどこんな地図買いました。

最新大阪市街全図

最新の大阪市が詳細に分かる地図ですよ。ええ。最新です!最も新しいやつ。
まあ、最新と言っても、何故か市電の路線が描かれていたりするし、私が住んでいる南港が海の中にあったりする、ちょっと古い最新の地図ですが≧(´▽`)≦アハハハ
地図の再下段に「大阪毎日新聞」との文字があるので、おそらく、購読者へ配布するために作ったものではないかと推測しています。新聞の定期購読者に向けって、今はカレンダーとか配るじゃないですか。そういうサービス品のような感じのものかな~って思っています(私の推測です)。こういう地図は明治の終わりからかなりたくさん種類が作られてきましたので、地図を作って配布するのがブームだったのかもしれません。
ただ、この地図が結構いい加減な地図で、鉄道の駅が設置されたのに記載がなかったり、どう考えても開通していない鉄道路線がすでに書き込まれていたり、平成の世にようやく開通する都市計画道路がすでに堂々と描かれていたり。何でもありな状態。この地図の正確な発行年を特定したいんですが、こういう事情もあって、どの時期のものかがよく分からないんですよね。昭和6年から10年くらいに発行されたということしかわかりません。まあ、今のように情報がすぐに入手出来るはずがないので、地図の編集は至難の業でしょう。しょうがない部分はありますね。こういうところが古地図を探索する楽しみのひとつでもあるんですがね。




さてさて、その地図を見ていると、何だか変なものがあることに気づきました。
これ、桜宮橋(銀橋)あたりなんですが、銀橋の北側に「淀川橋」という橋が記載されています。( ̄-  ̄*) うーん、こんなところに橋はなかったし、一体これは何だろう?
よくわかんないので、現地に何か痕跡が残っていないか探してまいりました。


地図を見て、空心町に学校の記号があり、おそらくこれが今の扇町総合高校(当時は何て名前だったんだろう?)であると仮定すると、「淀川橋」の架けられていた通りはOAPのすぐ南の道路だということで、そのあたりを散策。
天満橋筋の扇町総合高等学校正門にぶち当たる道が橋に続いていたようです
OAPの南側道路。右側は未だに三菱マテリアルの敷地なのですねー

淀川に到着。ここで道路がなくなったー

道路は桜宮公会堂北側でぷっつりと切れています。
付近にはそれらしき案内は何もなく……都島側へ。

都島側も、なにが具体的なものはないかなーと探していると、こういう石碑を見つけました。

青湾ですか。
このあたりはおいしい水が汲めるということで、豊臣秀吉がお茶に使う水を取るために、川に入り江を作ってそこで水を汲んだとか。で、その入り江を青湾と言うそう。そうですかそうですか。そんなにおいしいんですか。今では想像つきませんけど。
まあ、江戸時代はこのあたりの水を汲んで市内に売り歩く水屋さんもいたということですから、凄く綺麗だったんでしょうなあ。

あ、違う違う。今日はこの石碑を見に来たんではないんです。橋の痕跡を探しに来ました。
でも、都島側の橋の東詰あたりを散策したんですが、特に何も見つけられず……
都島側から。ここに橋が架かっていた


東詰。ひっりとした住宅地
全く何も手がかりがつかめないまま、現地調査は打ち切られたわけですが、ググってみると、北区役所のページにさらっと触れられているじゃん。


明治35年にかけられた橋とのこと。昭和5年に桜宮橋が完成してお役御免となったようです。約20年ほどの短い生涯だったみたい。
しかし、地図には桜宮橋と同時に書き入れられていると言うことは、同時期に存在していたと言うことでしょうか。それとも、編集者のいい加減さから、地図から消されることなく忘れられていたのでしょうか?とにかく、ここに橋があったのは事実のようです。しかし、現場にその今世紀が何一つ残っていないのは不思議な気がします。旧淀川(当時は新淀川がないのでこちらが淀川の本流でした)に架かっていた橋なのに、まったく存在していたのを忘れ去られているのは何故なんでしょうか?
桜宮橋が出来る前の淀川橋は、市の郊外と都心を結ぶ重要な橋であったはずです。当時は、まだ源八橋は渡し船でしたし、下流には天満橋まで橋がありません。毛馬橋も、大正末期にやっと人道橋レベルの橋が設置されただけ。この地図でも記載されていますが、当時の北区は、現在の都島区の南部も北区の一部であったので、区内を移動するために大いに役立ったはずなんです。どなたか淀川橋の当時の写真とか残している方はいませんか~。

こういうように、古い地図を眺めるだけでいろんな発見をしてしまうのですよ。そして、調べれば調べるほどに深みにはまってしまう。これが古地図の「魅惑」ですわ。