2014年5月1日木曜日

毎日新聞堂島本社跡モニュメントに見る、大阪の新聞が自由闊達だった時代

堂島アバンザのオープンスペースに、毎日新聞大阪本社の旧社屋玄関の玄関ポーチが、モニュメントとして設置されている。

そのことからも想像できる通り、堂島アバンザが建つまで、この地には、毎日新聞大阪本社の旧社屋があった。


堂島アバンザのオープンスペースに設置されている毎日新聞大阪本社の旧社屋玄関の玄関ポーチ

梅田の西、今のOSAKAガーデンシティに毎日新聞の大阪本社の新社屋が出現したのは、1992年の11月20日のことだ。
それまでの70年間、堂島にあった旧社屋は、多くの新聞人を育ててきた。
戦災から生き残った堂島の旧社屋は、汚れてはいるけれどもどっしりとした石の外壁で、中に入ると、高い天井とフローリングの床がモダンで、蛇腹式のスチールドアが開閉する映画のセットのようなエレベータが上下していて、新聞社の社屋というよりも、大正建築の見本のような建物だった印象がある。

大阪市東区(現中央区)で産声をあげた毎日新聞は、安堂寺町、今橋、高麗橋を経て、1889年(明治22年)に、東区大川町(現大阪市中央区北浜)に社屋を新築する。その前年、題字を「大阪日報」から「大阪毎日新聞」にあらため、本格的な報道機関の時代に入る。現在の京阪淀屋橋のすぐ西、土佐堀川の南だ。

当時の部数は5,000部。「つひまぶ」の発行部数が3,000部だから、そう変わらない数字だと考えると、最初の産声は本当に小さなものだったのだとわかる。
小規模ながらも、それまでの新聞が政党の機関紙的な「政論新聞」が主流だったのに対し、大阪毎日新聞は「不偏不党」「事実の速報」を掲げる、ニュース報道を生命線とする媒体を目指していた。
え?新聞とはそういうものじゃないの?と、訝しむ人がいるかもしれないが、近代新聞黎明期は、官権派の代表である東京日日新聞や民権派と目された郵便報知新聞など、中央政界の各勢力を背景にした「政論新聞」が主流であり、政治的に無関心な庶民を対象とした、口語体でフリガナ付きのものは「小新聞」と呼ばれ、傍流に位置していた。
1874年(明治7年)東京で創刊された読売新聞や、1879年(明治12年)に大阪で創刊された朝日新聞なども、小新聞としてスタートしている。大阪毎日新聞の出発点もまた、この、小新聞である。

大阪の実業界が、読んで役に立つ新聞を!と、大阪毎日新聞の発行バックアップし、その実業界から大阪毎日新聞の経営に参加した第五代社長の本山彦一が、新聞のニュース報道機関としての独立を強く唱え、紙面の商品価値を高めていった。政治に距離を置いた大阪実業界のリアリズムがそのまま反映されたのが、出発当時の大阪毎日新聞だと言える。

政論に対し、実質的な事実の報道。
現代の新聞を見ると少し怪しい気もするけれども、このことは、一応、現代にいたるまでの近代的な新聞の方向性として、生きている。
小新聞は、政論と訣別することによって、大衆紙志向を強めることとなり、発行部数を拡大させ、挿絵や小説、懸賞企画が多用され、犯罪ニュースへの傾斜を強めていく。そんななか、大阪毎日新聞は東京進出を果たし、1911年(明治24年)に「政論新聞」の代表格であった東京日日新聞を買収し、全国紙体制の基礎を築いた。明治30年代には、ロンドン、ワシントンに初めて常設の通信員を置くまでになった。
このように、日本の新聞の歴史は、小新聞が政論新聞を制して全国展開を果たす歴史だと言える。

この間、東区大川町時代の功績は、輝かしい。日清・日露の両戦争があり、大正時代に入ると第一次世界大戦、ロシア革命と世界史を揺るがす大事変が続き、世界のニュースが大川町に集まり、大川町から日本全国に発信され続けた。
報道以外にも、1907年(明治39年)には浜寺海水浴場を開設し、まだ一部の人のものだった海水浴を一般に広げる先鞭もつけている。

話は少し逸れるが、大阪の新聞社は、ニュース報道だけで競い合ってきたわけではなく、春夏の高校野球は、それぞれ毎日と朝日、高校ラグビーは毎日新聞社の主催で開催され、一時はプロ野球チーム・毎日オリオンズを持ち、プロサッカーに手を出す新聞社すらあった。
日本のスポーツはほとんどが東京の諸大学によって輸入され、それらの指導によって発達したが、その基礎は上方の中学校(現 高等学校)によって培われ、新聞社によって加勢されて根付いたものが多い。社会人野球の全日本選手権も、毎日新聞社主催だ。
スポーツだけでなく、朝日のフェスティバルホール、産経のサンケイホール、毎日の毎日ホールなどの各社のホール建設は、室内楽や新劇を育てた。特に、フェスティバルホールの功績は計り知れない。世界最高の管弦楽演奏がそれにふさわしい環境で聴けるようになったことは、大阪が大都市の名に値する資格のひとつを備えたと言い換えることができるだろう。

閑話休題。
大阪毎日新聞は、1922年(大正11年)、北区堂島に完成した新社屋に移転する。
鉄筋コンクリート造り、地上5階地下1階建て。この時期には、東京日日新聞と併せて100万部を超える部数を誇っていた。
新聞記者にスーツ着用のドレスコードができたのは、この、新社屋移転に伴ってのことらしい。屋内には当時珍しかったエレベータが設備され、ネオ・ルネサンスの建築様式とも相まって、大正ロマンのモダンな空気の中に新社屋があったと聞く。
既成の政論新聞を制して小新聞が躍進していく姿は、この新社屋のようにモダンで、時代の先端を行く者ならではの自由闊達な空気があったことは、想像に難くない。

1992年(大正11年)に竣工した大阪毎日新聞堂島社屋(出典不明)

以後、堂島時代は70年間続く。
堂島新社屋が完成した年、記念事業として、「点字大阪毎日」「英文大阪毎日」「サンデー毎日」が創刊され、翌年には「エコノミスト」が発行された。
なかでも、「点字大阪毎日」は現在に至るまで日本における唯一の点字新聞であり、90年以上の長期にわたって点字新聞を発行し続けている新聞社は、世界にも例がない。

「点字大阪毎日」の紙面。点字が見えるだろうか?

この間、政治経済は言うに及ばず、報道メディアも東京一極集中の度合いを高めていく。そんななか、大阪の堂島で編集・発行され、全国に配送され続けたことは、重要だ。
大阪朝日新聞も中之島から新聞発行をスタートさせた新聞である。キタは、全国紙の中心であり、全国でも一級の情報発信基地だったのだ。


まちの持つ力が企業を育て、まちは企業の力によって活力を補充する。
まちと新聞にも、似たようなところがあるように思える。
キタが全国展開する新聞の拠点であるという事実は、それだけまちに力があり、情報発信機能が強いことを物語っている。
新聞の存在が、まちの活力を押し上げる要因のひとつになっているとも、言えるかもしれない。

古来、政治権力と縁が薄く、官より民が幅を利かせてきた大阪のまちのエネルギーは、商売人や庶民の汗を源泉にしている。政党や政論と縁を絶ち、大衆紙を目指した新聞もまた、これらのエネルギーを支えに発展してきた。大阪のまちが持つリアリズムと本音の世界が、このエネルギーの構成要素の一部になっている。

大阪の新聞社の立地を見ると、新聞発送に都合がいいということもあってか、大阪駅周辺に集中している。同時にそれは、盛り場の近くでもある。
生々しい喜怒哀楽がうごめく盛り場のエネルギーに、大阪の新聞社が呼応してきた。そんなふうに言うことはできないだろうか。
政論新聞ではない。民や草の喜怒哀楽をともにする新聞なら、その場所に身を置くことは、自然の成り行きなのかもしれない。

毎日新聞の堂島社屋は、北新地の玄関口に位置していた。
盛り場を彩る女性や酔客たちが行き交う場所だ。その場所には、かつて、テレビのない時代、玄関前に巨大な掲示板が掲げられ、野球の速報や実況が行なわれていたという。

「思想は高尚に、文章は通俗に、議論よりも記事に重きを置け」。
第五代社長の本山彦一の、有名な言葉である。
堂島時代、大阪毎日新聞をはじめとする大阪の新聞は、輝かしい時代だったように思う。大阪毎日新聞は言うに及ばず、大阪の新聞はどこも、本山の言葉のようだった。

テレビやインターネットの圧倒的な速報性をまえにして、新聞は進むべき道を模索しているように見えるが(といっても、新聞が電波・通信のメディアに先んじて報道することも珍しくはない)、解説、分析、予測機能の重視、評論、提言型報道…、やれることはまだまだたくさんある。


まちと呼応した、活力のある大阪の新聞を、これからも期待したい。