2014年4月9日水曜日

造幣局の桜の通り抜けの歴史を振り返る

造幣局桜の通り抜け 今年の桜「松前琴糸桜」。北海道は松前町で毬山家の庭にあった無名の八重桜の大木の種子からつくりだした桜で、開花後、紅色から淡紅色になる。


花見は、奈良時代の貴族の行事が起源だと言われる。
もっとも、その頃は、中国伝来の梅を愛でるのが主流であったようだ。
万葉集には桜を詠んだ歌が40種、梅を詠んだ歌が100種ほどあり、梅のほうが多い。古今和歌集ではその数が逆転していることから、遅くとも平安時代には、花見の対象は、梅から桜にシフトしたものと思われる。

9世紀半ば、平安京の紫宸殿の前庭に植えられていた梅と橘のうち、梅が枯れてしまったため、梅に代わって日本に古くから自生する桜が植えられる。これが、左近の桜のはじまり。
これがなかなか斬新な趣向であったために貴族社会で注目を浴び、梅から桜へと美のパラダイムシフトが、どうやらこのときに起きたようである。
背景にあったのは、中国の唐から吸収する一方だった文化のトレンドが衰退し、カウンターカルチャーとして、日本固有の文化、国風(kuniburi)文化が台頭してきたことにある。
寝殿造りがつくられ、十二単が発明され、絵画のトレンドが唐絵から大和絵に転換し、唐からの輸入音楽であった雅楽の「日本化」が起こり、国風歌舞の様式が整いつつあったのも、この時期だ。
決定的だったのは、日本初の勅撰和歌集である古今和歌集が編纂されたことだ。歌といえば漢詩吟の時代にあって、醍醐天皇が命じて紀貫之が編んだ古今和歌集は、大和言葉で詠まれた歌を、歌の代名詞としてしまうだけの力があった。前述した通り、ここでは、桜を愛でる歌が梅のそれを凌いだ。
文化、風俗のあらゆるなかで「日本化」が進められ、桜を愛でる「花見」も、「日本化」のトレンドのなかで、そのころに確立した。

さて、造幣局。

造幣局といえば桜の通り抜けである。
造幣局でつくってる貨幣は人を狂わせる最たるものだけれども、その脇に、人を狂わせる妖気を放つ桜がたくさん植えられているというのは、いくらなんでも話が深すぎるような気がする。

そもそも、なぜ、造幣局にはあんなにも桜が植えられてるのか?

江戸時代、ここには藤堂藩の蔵屋敷があり、そこで里桜が育成されていた。品種が多いばかりでなく、ほかでは見られない珍しい里桜もあったという。廃藩置県を機に、造幣局が、敷地とともにその桜を受け継いだ。

造幣局は、1871年(明治4年)に創設される。桜の通り抜けがはじまったのは1883年(明治16年)で、当時の造幣局長が、役人だけで花見をしてはいけないと、一般開放を断行したのが、はじまりである。

当初、総門(現在の南門)から柵門(現在の源八橋西詰にあった裏門)までの約1kmが開放された。
1898年(明治31年)に北門付近までの560mに短縮され、以降、現在に至るまでこのコースが開放されている。ちなみに、開始当時から一方通行なのだけれども、一方通行の方向は、何度か変わっているらしい。

この時代、人出は約2万人から10万人で推移していた。
桜は徐々に集められ、1909年(明治42年)の時点で18種287本、品種としては一重の「芝山」が半数を占めていた。

大正時代に入ると花見客が激増し、1917年(大正6年)には約70万人を集め、戦前の最高を記録する。
ただ、当時は、大阪の重工業発展期であり、煤煙により桜が枯死する事態が起こり、一重の「芝山」が半減するような事態もあったらしい。
「芝山」に代わって、一重八重の「御車返(mikurumagaeshi)」が主流を占めるようになるも、この桜も激減の一途を辿り、品種の移り変わりは激しかった。
桜は大気汚染に弱いのだ。当時も今も、桜守による維持管理のための努力は、相当なものがあったに違いない。

想像に難くないが、1942年(昭和17年)、第2次世界大戦の年には、開催途中で中止されている。
1945年(昭和20年)6月の大空襲では、約500本中300本の桜が焼失した。造幣局は軍事施設ではないけれども、国家中枢のひとつなので、集中的に狙われた。
通り抜けが中止されたのは、このときだけである。東日本大震災が起こった2011年(平成23年)も、夜桜の通り抜けこそ中止となったが、通り抜けそのものは中止されなかった。

通り抜けが再開するのは、戦後の1947年(昭和22年)。わりに早い時期の再開のように感じるが、それだけ、世が明るいものを求めていたのかもしれない。
順次、桜樹の補充も行なわれ、1951年(昭和26年)には、夜桜の通り抜けもはじまっている。

1955年(昭和30年)年あたり、工業の復興とともに、再び大気汚染対策の問題が持ち上がる。ここでもまた煤煙に強い品種とそうでない品種とがあり、現在の主流を占める八重の「関山(kanzan)」が、この頃から大きく取り上げられるようになる。

以上が、造幣局桜の通り抜けの主な歴史。

藤堂藩の蔵屋敷にて育てられていた里桜の一群は、今では、毎年70~80万人の人出を誇り、2005年(平成17年)には約115万人近い人が、ここの桜を愛でに訪れた。
藤堂藩といえば、城づくりの名人である藤堂高虎を輩出した家系である。
高虎は何度か主君を変えたが、日本三大水城に数えられる今治城をはじめ、今も多くに愛される城を築城した。
造幣局の通り抜けの桜もまた、主を変えながらも、今日に至るまで多くに愛されている。



以下、数年前に造幣博物館で開催された回顧展で展示されていた、むかしの写真から。


1870年代。造幣局がオープンして間もないころ。
川の向こうに桜並木があるのが見えるが、人出がないので、通り抜けの時期ではないのかもしれない。
三味線弾いてるのは、芸子さんか。


1890年代。一重が主流を占めていた時代だが、写真で見るかぎり、八重のように見える。人がまばら、昨今の人出とは隔世の感がある。



1912年(明治45年)。全員が着物。



1921年(大正10年)。大正モダニズムの絶頂期らしく、お子らの服がハイカラになる。



1931年(昭和6年)。銀橋が見える。
この頃になると、ずいぶんと人出が増える。



1942年(昭和17年)。すごい人出。今よりも道幅が狭い。



1952年(昭和27年)。子どもたちが集団で訪れている。学校から来ているのだろうか?




今年の桜の通り抜けは、
4月11日(金)〜4月17日(木)
平日 / 10:00〜21:00
土日 / 9:00〜21:00

今年の桜は、「松前琴糸桜」。
北海道は松前町で毬山家の庭にあった無名の八重桜の大木の種子からつくりだした桜で、開花後、紅色から淡紅色になる端正な桜。
初登場は、「笹賀鴛鴦桜(sasaga-osidori-sakura)」。

造幣局の桜の通り抜け案内
http://www.mint.go.jp/enjoy/toorinuke/sakura-osaka.html