2014年4月28日月曜日

大阪天満宮の鎮花祭「儀式包丁」を観てきました!

平成26424日(木)に、大阪天満宮の鎮花祭(ちんかさい)へ行ってきました。
鎮花祭は、「はなしづめのまつり」とも言われます。

古代では季節の変わり目ということもあり、桜花の散るころから初夏へと気候の移り変わりが激しく、疫病の流行する時期に当たり、花の季節には散る花に乗って疫病の精霊が飛散すると考えられていました。
これを祖先の人は、花の精霊の仕業と考え、朝廷ではこの精霊を鎮める祭儀を「花鎮めの祭り」として、奈良時代の神祇令に規定し、疫病の霊を鎮め、心身の健全を祈願した祭りだそうです。
古来厳粛に斎行され、25日の本殿神事をはじめ、神楽、雅楽、舞楽、奉納や剣道薙刀の演舞、紅白試合などさまざまな催しが行われるとのことです。氏子の先祖をお祀りする「春季祖霊祭」も斎行されます。

前日の2413時からは、神賑行事のひとつ儀式庖丁船中の鯛」が催されました。
庖丁人は北新地むろ多の室田大祐氏(平真四條流儀式庖丁道師範・社団法人全国技能士会連合会会長・大阪府日本調理技能士会会長、平成25年度大阪府優秀技能者表彰(なにわの名工)・平成25度全技連マイスター(匠))、持出は加賀屋 博多店の料理長 平川泰司氏、後見人は四條流高弟位の正木数義氏、介添は北新地むろ多の料理長 小笠原大輔氏(平成23年度大阪府優秀技能者表彰なにわの名工若葉賞受賞)でした。

大阪天満宮の本殿前に舞台が作られ、儀式庖丁「船中の鯛」はそこで執り行われました。
「船中の鯛」は、庖丁人室田大祐氏が、右手に庖丁、左手に爼箸(まなばし)を持ち、爼板(まないた)の上に据え置かれた料理材料「鯛」には決して素手をふれることなく、自身の六根清浄を念じ、天下泰平、五穀豊穣を祈願しつつ、庖丁と爼箸を巧みに操り、庖丁の錆となるすべての料理素材の生命に感謝の意を捧げ、一刀一礼の作法にのっとって魚を料理するものです。巧みな庖丁さばきによる、荘厳な技術披露が行われました。
















室田大祐氏は、今年の122日に北区役所で行った、なにわの伝統野菜「天満菜」を味わう料理講習会の講師も務めていただき、精力的に日本料理の技術向上に努め、食育にも力を注いでいただいている人物です。
今年も、北区役所等で食育教室や料理講習会の講師をお願いしています。お楽しみに!

2014年4月24日木曜日

「そういうのが好きだからやっているなんて言ったら絶対にあかん!!」~北区のちいき活動情報(北区で子育て支援している人たち)の取材で学んだこと~


つひまぶ創刊号で紹介しました北区で子育て支援している人たちは、各地域の民生委員さんや主任児童委員さんを中心に、地域のボランティアの方々によって運営されている地域子育てサロンと呼ばれるグループです。その方々に対する取材を通じて、様々なことを学ばせていただきました。 

《中心になって活動している人って誰?》
 誌面で一番大きな要素を占める写真。写真を撮ればよいだけにも関わらず、これが一番苦労しました。写真の大きさ、画用紙や顔の位置関係、笑顔になってもらうこと等も難しかったのですが、それ以外で予想外に苦労したことがありました。それは、誰を撮影するかを決めることです。

 写真撮影をするにあたり初めの頃は、中心となって活動している方や、いつも活動されている方を撮らせてくださいとお願いしていました。当然、すぐにリーダーの方が手を挙げてくれるものだと思っていましたが、「みんなで協力してやっているので、誰が中心かなんて決められない」という答えが返ってきました。グループということは、リーダーを中心に活動しているものだと思っていましたので意外でした。

 う~ん、どうしたものやらと考えながら、サロンの様子を見ていると、仕切りはリーダーがするものの、確かにみんなで協力しながら運営していました。これでは、中心となって活動している方や、いつも活動されている方と依頼しても、人選するのは難しいなと思いました。

 客観的にみると、グループの中での役割、活動量や能力の違いなどありますが、みんな自分ができることを一生懸命やっています。地域のために活動している方に上も下もない。みんなで協力しているからこそ成り立っていることに気づかされました。

 (どなたでも構わないので写真に写る人を二人ほどお願いします、というふうにお願いの仕方を変えてみると、比較的簡単に人選できました。ものの言い方って大切なんだなぁと改めて感じました)

《惰性で活動していません》
 地域子育てサロンは、基本的に毎月開催しています。ボランティアの方々で運営されているので、どうしても毎回同じような内容になりがちなのかなと思っていました。半分は正解で半分は間違いでした。サロンの目的は、親子同志や親子と地域ボランティアが交流することで、子育ての悩みなどを少しでも解消し、子育てを楽しんでもらうことです。そのため、親子が参加したくなるようなサロンにしないと目的を達成することができません。そこで、基本となる内容は変えず、イベント的な部分を工夫しています。

 例えば、季節のイベント。ひな祭りには人形づくり、子どもの日には兜づくり、七夕には笹飾り、クリスマスにはサンタさんにきてもらう。絵本の読み聞かせも、毎回絵本を使うのではなく、エプロンシアターをしたり、1メートル近く巨大な絵本を使ったりして変化をつけています。ある場所では、工作や体操の先生にボランティアで来てもらい、教室をしているところもあります。また、ある場所では、地域のボランティアが子どもを見守っている間に、違うフロアでお菓子教室をしているところもあります。

 また、地域によって得意不得意の分野がありますから、不得意な分野は他のサロンや子ども子育てプラザから助っ人を呼んでいるところもあります。

 自分たちができる範囲で工夫をする。ボランティアとはいえ、惰性で活動していません。当たり前のように運営されているサロンは、このような工夫のもと成り立っていることに気づかされました。

《そういうのが好きだからやっているなんて言ったら絶対にあかん!!》
 私は無神経で何も分かっていない人間でした。そう実感させられる場面がありました。地域子育てサロンも終盤に近づき、取材に慣れてきたこともあって、ボランティアの方々と気軽に話ができるようになりました。そんな中、地域の活動について、みなさんそういうのが好きだからやっているのですよねと話をしたところ、突然、「地域で活動している人は、単純に好き好んでやっているわけではない。そういうのが好きだからやっているなんて言ったら絶対にあかん!!」と怒られてしまいました。正直???でした。好きじゃないのにボランティアってするものなの?と。

 まだ答えは分かっていません。ですが、自分なりに答えを考えてみました。地域で活動する人をボランティアという言い方をしていましたが、正確に言えば住民自治の一環で、ボランティアではないのかなと考えました。つまり、自分たちが住んでいるまちを良くするために活動しているのであって、それは仕事とか趣味でもない、また好きとか嫌いでもない、そこの地域で生活している一員としての役目なのかなと。言葉では簡単に言い表せない風土のようなもの...。

 つひまぶは、つながる・ひと・まち・ぶんかの略で、北区で生きる人に視点をあてて、紹介していくことを目的としています。この活動を通じて、少しでも答えが見えてきたらいいなと考えています。
 

 以上のように様々なことを学びました。つひまぶは、まだまだ始まったばかり。活動を通じた新たな出会い・学びが楽しみです。


 ↑ 地域子育てサロンの場所を見つけやすくするため、オリジナルの看板をつくっているところもあります。
 


 

2014年4月21日月曜日

花よりバーベキュー?!

さて、桜の時期もすっかり終わってしまいましたが、みなさんは春の訪れの一大イベント『お花見』を満喫されましたか?

私のおすすめは、長柄橋南詰の毛馬閘門周辺の堤の桜です。
意外にも見ごたえがあるとともに、何がおすすめかというと、少し離れた淀川河川公園長柄地区の指定区域内で、バーベキューができるんです!

まさに『花より団子』!

バーベキューまではちょっとという方には、バーベキュー区域外ではルールを守れば芝生にレジャーシートを敷き、お弁当を食べながら北を向けば淀川大堰、南を向けば花見ができる、なんてことができるんです!

いちおう年中利用できるのですが、冬は寒すぎるし、夏は暑すぎてバーベキューどころではなくなります。日陰もありませんし。

だから、いまがベストシーズン!


梅田からバスで約10分、徒歩5分。
都心からさほど離れることなく、名実ともに『オアシス』に到着できますよ!



河川公園から長柄橋と阪急千里線を望む


ここで小ネタをひとつ。
この淀川河川公園長柄地区内には、北区と都島区と東淀川区の境界が走っています。
航空地図なんかで調べてみると、確かに境界があるのですが、なにせ芝生の広場なので境界がわかりづらい!

みなさんお出かけの際は、事前に下調べをして、区に跨がる自己満足画像でも撮影してみませんか?


以上、来年のおすすめ花見スポット紹介でした!

2014年4月17日木曜日

ピンクのガーデンブリッジ

こんにちは。4月に入り、本「つひまぶweb」は春、桜の記事が続きました。ということで、私Leftyも北区の春の見所をご紹介します。
タイトルの「ピンクのガーデンブリッジ」を見て疑問に思われた方、松田聖子のシングルを思い出された方(古い?)、本題に入る前に少し大阪での光のまちづくりについてお付き合いください。

■水と光の首都大阪
大阪では府と市が手を組み、「水と光の首都大阪」の実現を目指しています。私なりに超簡単に説明をすると、大阪の地形的特徴である「川・水」とそれに映り込む「光」をがっちゃんこして、魅力的な風景をつくって「ひと・もの・かね」を呼び込み活性化しよう!という都市戦略なのであります。
※もっと詳しいことが知りたいという方は「大阪 水と光のまちづくり推進会議」と検索すると「どれを見ていいの?」というぐらい色々と出てきますので、そちらをご覧ください。関係者の皆様、ざっくりとした説明ですみません・・・。
ここで伝えたかったのは、北区には北に淀川、東に大川、南に堂島川と土佐堀川が流れているという地理の再確認と、北区の中之島はその戦略のシンボル地域であるということです。

■中之島ガーデンブリッジ
タイトルの「ガーデンブリッジ」とは、北区中之島~堂島に架かる幅約20メートルの歩行者専用橋「中之島ガーデンブリッジ(以下「GB」)」のことですが、この橋上でオープンカフェの社会実験が行われたのは記憶に新しいところです。GBの堂島川上流に架かる大江橋(御堂筋)から見ると、GBを中心に左には護岸、右には阪神高速の橋脚の3つの構造物がライトアップされています。この3つのライトアップは、管理者が別々で以前は光の色もまとまりがなかったのですが、「水と光の首都大阪」の取り組みの一環として、ここ数年で同系色に統一されています。更には・・・

■ピンクのガーデンブリッジ
先述した3つのライトアップは、四季ごとに色が変わっています。見たところでは毎時0分と30分の数分には四季の色、その他の時間は青で統一されています。
実はこの時間。中之島の剣先噴水が噴き出す時間と同じなんですね。

[毎時0分~数分:ピンク]→[]→[毎時30分~数分:ピンク]→[]・・・
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ここでタイトルの「ピンクのガーデンブリッジ」。
この春から、新色としてピンクのライトアップが行われています。ということは、今後の夏、秋、冬はまた違った色が見られそうです。

春の新色!ピンク(春の毎時0分と30分に数分点灯)

 毎時0分と30分の数分以外は青

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■その他の北区ライトアップ橋梁
3方を川に囲まれた北区には、その分だけ橋が架かっています。その橋梁ライトアップをちょこっと写真を中心にご紹介します。



国の重要文化財に指定されている「大江橋」
旧姓 堂島川可動堰の「水晶橋」

大阪人が最も好きな橋「難波橋(なにわばし)」
※建設局のアンケートより
その昔、大阪天満宮が管理?「天神橋」
※真偽のほどはわからないそうです。
旧姓 土佐堀川可動堰 「錦橋」

踊るライティング「玉江橋」
玉江橋、クリスマスダンシング!(「光の饗宴」時)

以上です。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
えっ?!難波橋、天神橋というと浪華三大橋である天満橋はどうしたの?と。
良い写真がなかったので・・。失礼しました!



2014年4月14日月曜日

ゴムボートでゆく!水辺の旅〜!


こんにちは。よりともです。

みなさん、


お花見は楽しまれましたか?
大阪市内ソメイヨシノは、見頃をすぎてしまいましたが、
造幣局の桜の通り抜けは4/17()まで!
私もぜひ行ってみたいと思います。

さて、今回はお花見!ではなく、水辺の話題を少し。
海外から友人が帰国中、おもてなしの意味を込めて、
少し趣向の違う楽しみを!と言うことで、
4/4(金)の夜、NPO法人水辺のまち再生プロジェクトさんの企画。
Night Cruising with Rawboat!」に参加してきました。

クルージング!と言うと、エンジン付きの船で優雅に。
というのを想像されそうですが、
今回は、違います。
乗るのは、手こぎのゴムボート!

大阪中央卸売市場より、土佐堀川を上り、
(ちょうど、満ち潮の時間帯、潮の流れに乗っての川のぼりです。)
中之島公園の薔薇園橋をくぐって、堂島川を少し下り、
大阪市中央公会堂近くの船着場でゴール!
4km弱のコースを2時間程かけてゆったりクルーズ。

エンジン付きの小型船も川を身近に感じられますが、
ゴムボートは、それ以上に川面が近く、
まるで、自分たちが川でプカプカ浮かんでいるかのような、
今までに味わった事のない臨場感を味わえます。

中之島界隈の高層ビル群や、意匠の美しい橋、
大阪中央公会堂に代表されるレトロな建築物等、
川からの眺めは、陸から見るのとはまた違った表情で、
水都大阪を体感できる、素敵な体験でした。




















クルーズと聞かされ、やって来た友人は、
手こぎゴムボートにかなりビックリしていましたが、
最後は大満足の表情!

ひと味違った水辺の楽しみ方をしたい方には、
とってもおすすめです!

不定期でさまざまな水辺の楽しみ方を提案・提供している
NPO法人水辺のまち再生プロジェクトの情報は、下記FBページ等で。
要チェックです!

2014年4月10日木曜日

ルーツ、ルーツを探るってなんだ!オンリーワンを見つけることさ~

大阪ではソメイヨシノもまもなく散り終わり、八重桜の季節が始まろうとしている今日この頃、いかがお過ごしですか。

こんにちは。なみはやノーツです

そうですそうです。造幣局ですよ。もうそんな季節になったんですよねー。すっかり春なので、私はぼちぼちと冬の防寒具を仕舞っていっている最中です。
なお、ルイスさんが造幣局の桜の詳しい歴史を調べていますので、お出かけの際は前の記事を見ていただくと、また違った通り抜けになるんじゃないでしょうか。


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今日は、私の親の話を。

この「つひまぶ」は、固い話なんですが、北区の魅力向上事業という役所の政策の中から誕生したものです。中の人は、私も含めてボランティアで作業しています。
いちおう、北区が大好きな人という応募が昨年の秋から冬にかけて行われて、私はそこで応募したということになっています。(実は、このあたりは複雑な経緯があるので、時間があったら書いてみようと思います)
ただね、私は直接北区との接点があるわけではないんですよ。生まれも育ちも東淀川。会社は西淀川とか淀川、浪速区あたりにあったので通勤で通過するくらいな感じです。

ひとつだけ接点があるとすれば、私の父親が樋ノ口町育ちなんですよね。

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当時の家は都島橋の橋のたもとにあったようです。当時の大川の河川敷には不法な住居を建てて住んでいる人が多数いたようで、私の父も、その中の一人だったようです。まあ、裕福な家庭ではなかったようですな。
小学生の時がちょうど太平洋戦争のまっただ中。本来は学童疎開をしなければならないはずだったのに、何故かそれを拒否するという大胆不敵な行動に出て(これ、当時としては犯罪のような気がしますが)、空襲に何度も遭っています。
多感な頃の戦争であり、私に話をするときは、決まって空襲の話。天六周辺は焼けませんでしたが、扇町から南側はすごかったとか。お腹をすかせて長柄斎場裏の墓地で、お供え物を食ったりしたとか。赤川鉄橋あたり(毛馬の閘門付近だったかも)では米軍グラマン機の機銃掃射にも遭ったことも話してくれました。戦後も動乱期でしたので、辻売り(おみくじのようなものを売り歩いた)なんかもしたり、大変な苦労をしたようです。

戦後、学校を出てからは、これまた都島橋付近にあったガラス工場に就職します。
天満は大阪のガラス発祥の地。造幣局があったお陰で、原材料が安く仕入れる事が出来、ガラス工場がいち早く操業して繁栄を極めました。正に、天満にふさわしい仕事をしていたようで、主に日用品としてのガラス食器類を手がけていたんだとか。しかし、時代の流れか、結婚して新居を城東区の新喜多に移してから間もなく、ガラス工場が倒産してしまいます。機械化の波に会社が乗り越えられなかったようで、ここで北区の縁が切れてしまうのです。

そこから数年間は、またまた辛い日々の毎日だったそうで、職を転々と変え、何度も宿替えするなどの連続。しかし、万博の年に、やっと市営住宅が当たり、私の実家と言うべき東淀川区井高野に定住したのでした。

というわけで、本当に私自身は北区との接点はありませんが、今、父親との接点を見つけるため、こうしてブログを書きながらフリーペーパー作りに精を出しております。

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父の話を聞いて、私は歴史をさかのぼるという行為に異様に興奮しました。私の知らない大阪の街を知っている、そこから、何故私がここで生まれたのか?両親はどのようにして出会ったのか?その当時の暮らしはどうだったのか?当然、生まれる前の話ですから、想像力をかきたてて聞く。それはどんな小説よりも面白いお話でした。だって、「自分のルーツ」がはじめて明らかにされたんですから。
ここから、「地元愛」というのが芽生えたのかもしれません。私にとって、今後の生き方を決められたような話でした。
もっと話が聞きたいんだけど、残念なことにすでに他界して10年以上経ちます。今となってはそんな昔話も聞けず、もっと詳しく聞いておけばよかったと今は後悔するばかり。

ふとここで考えると、古い時代を知っている「時代の生き証人」は、今後どんどん鬼籍に入っていくわけですよね。昔を知っている世代がだんだんいなくなるんです。
歴史は埋もれていくものなのでしょうが、地域にとっては大切な財産を失う事になるんじゃないかと思うのです。
そう、街の歴史は財産なんです。

私は、この歴史の中に、街の発展につながるヒントが隠されていると思うんですよね。このヒントから、街のリノベーション(刷新)が出来るようになる場合があるはずです。
一例を挙げるとするならば、先ほどの話にも登場した「天満ガラス」。戦後まで残っていたガラス工場は、高度経済成長期の公害問題や法規制、また、大量生産品などに押されて、どんどん郊外に移転したり、沙汰されたりしていき壊滅状態にまでなったんですね。しかし、わずかに残った会社から、「天満切子(きりこ)」と呼ばれるガラス工芸が復興していくのです。切子とは、ガラスのコップや器に彫刻して模様を描くという技術。天満切子は、現代に合わせたデザインに変えて試行錯誤をした結果、希少価値もあわせて高価な金額で販売されています。(また取材に行きたいですね)

このように、地域に元からある「資産」を発掘をすることによって、まずは魅力・特色を見いだしていく。これはどの地域にも負けない「オンリーワン」なはずです。歴史という、逆立ちしても色褪せないものがあると、強い。
これをリノベーション(組み合わせたり手を加えたりして新しいものを作る)して、これを産業化するのは地元企業に任せましょう。地域が潤います。
そういうものが新しく勃興すると、地域に生きることの誇りになります。住むのが楽しくなる。そういう街になればいいかなって思っています。

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新しい街作りも面白いかもしれませんが、それよりも、今あるものを使って育てる方が、住む人にも愛着を持ってもらえる。
そのために、まずは古老の話を掘り起こして、新しい革新の糸口を探していきたい。
探し出したものは、地域以外の人でも受け継いでくれる人が出てくればそれでいい。そういう流れになればいいなって思います。

今朝の読売新聞で「つひまぶ」紹介されました。

今朝の読売新聞で「つひまぶ」紹介されました。

「キタ愛♡ 満載マガジン」

http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140410-OYTNT50031.html



2014年4月9日水曜日

造幣局の桜の通り抜けの歴史を振り返る

造幣局桜の通り抜け 今年の桜「松前琴糸桜」。北海道は松前町で毬山家の庭にあった無名の八重桜の大木の種子からつくりだした桜で、開花後、紅色から淡紅色になる。


花見は、奈良時代の貴族の行事が起源だと言われる。
もっとも、その頃は、中国伝来の梅を愛でるのが主流であったようだ。
万葉集には桜を詠んだ歌が40種、梅を詠んだ歌が100種ほどあり、梅のほうが多い。古今和歌集ではその数が逆転していることから、遅くとも平安時代には、花見の対象は、梅から桜にシフトしたものと思われる。

9世紀半ば、平安京の紫宸殿の前庭に植えられていた梅と橘のうち、梅が枯れてしまったため、梅に代わって日本に古くから自生する桜が植えられる。これが、左近の桜のはじまり。
これがなかなか斬新な趣向であったために貴族社会で注目を浴び、梅から桜へと美のパラダイムシフトが、どうやらこのときに起きたようである。
背景にあったのは、中国の唐から吸収する一方だった文化のトレンドが衰退し、カウンターカルチャーとして、日本固有の文化、国風(kuniburi)文化が台頭してきたことにある。
寝殿造りがつくられ、十二単が発明され、絵画のトレンドが唐絵から大和絵に転換し、唐からの輸入音楽であった雅楽の「日本化」が起こり、国風歌舞の様式が整いつつあったのも、この時期だ。
決定的だったのは、日本初の勅撰和歌集である古今和歌集が編纂されたことだ。歌といえば漢詩吟の時代にあって、醍醐天皇が命じて紀貫之が編んだ古今和歌集は、大和言葉で詠まれた歌を、歌の代名詞としてしまうだけの力があった。前述した通り、ここでは、桜を愛でる歌が梅のそれを凌いだ。
文化、風俗のあらゆるなかで「日本化」が進められ、桜を愛でる「花見」も、「日本化」のトレンドのなかで、そのころに確立した。

さて、造幣局。

造幣局といえば桜の通り抜けである。
造幣局でつくってる貨幣は人を狂わせる最たるものだけれども、その脇に、人を狂わせる妖気を放つ桜がたくさん植えられているというのは、いくらなんでも話が深すぎるような気がする。

そもそも、なぜ、造幣局にはあんなにも桜が植えられてるのか?

江戸時代、ここには藤堂藩の蔵屋敷があり、そこで里桜が育成されていた。品種が多いばかりでなく、ほかでは見られない珍しい里桜もあったという。廃藩置県を機に、造幣局が、敷地とともにその桜を受け継いだ。

造幣局は、1871年(明治4年)に創設される。桜の通り抜けがはじまったのは1883年(明治16年)で、当時の造幣局長が、役人だけで花見をしてはいけないと、一般開放を断行したのが、はじまりである。

当初、総門(現在の南門)から柵門(現在の源八橋西詰にあった裏門)までの約1kmが開放された。
1898年(明治31年)に北門付近までの560mに短縮され、以降、現在に至るまでこのコースが開放されている。ちなみに、開始当時から一方通行なのだけれども、一方通行の方向は、何度か変わっているらしい。

この時代、人出は約2万人から10万人で推移していた。
桜は徐々に集められ、1909年(明治42年)の時点で18種287本、品種としては一重の「芝山」が半数を占めていた。

大正時代に入ると花見客が激増し、1917年(大正6年)には約70万人を集め、戦前の最高を記録する。
ただ、当時は、大阪の重工業発展期であり、煤煙により桜が枯死する事態が起こり、一重の「芝山」が半減するような事態もあったらしい。
「芝山」に代わって、一重八重の「御車返(mikurumagaeshi)」が主流を占めるようになるも、この桜も激減の一途を辿り、品種の移り変わりは激しかった。
桜は大気汚染に弱いのだ。当時も今も、桜守による維持管理のための努力は、相当なものがあったに違いない。

想像に難くないが、1942年(昭和17年)、第2次世界大戦の年には、開催途中で中止されている。
1945年(昭和20年)6月の大空襲では、約500本中300本の桜が焼失した。造幣局は軍事施設ではないけれども、国家中枢のひとつなので、集中的に狙われた。
通り抜けが中止されたのは、このときだけである。東日本大震災が起こった2011年(平成23年)も、夜桜の通り抜けこそ中止となったが、通り抜けそのものは中止されなかった。

通り抜けが再開するのは、戦後の1947年(昭和22年)。わりに早い時期の再開のように感じるが、それだけ、世が明るいものを求めていたのかもしれない。
順次、桜樹の補充も行なわれ、1951年(昭和26年)には、夜桜の通り抜けもはじまっている。

1955年(昭和30年)年あたり、工業の復興とともに、再び大気汚染対策の問題が持ち上がる。ここでもまた煤煙に強い品種とそうでない品種とがあり、現在の主流を占める八重の「関山(kanzan)」が、この頃から大きく取り上げられるようになる。

以上が、造幣局桜の通り抜けの主な歴史。

藤堂藩の蔵屋敷にて育てられていた里桜の一群は、今では、毎年70~80万人の人出を誇り、2005年(平成17年)には約115万人近い人が、ここの桜を愛でに訪れた。
藤堂藩といえば、城づくりの名人である藤堂高虎を輩出した家系である。
高虎は何度か主君を変えたが、日本三大水城に数えられる今治城をはじめ、今も多くに愛される城を築城した。
造幣局の通り抜けの桜もまた、主を変えながらも、今日に至るまで多くに愛されている。



以下、数年前に造幣博物館で開催された回顧展で展示されていた、むかしの写真から。


1870年代。造幣局がオープンして間もないころ。
川の向こうに桜並木があるのが見えるが、人出がないので、通り抜けの時期ではないのかもしれない。
三味線弾いてるのは、芸子さんか。


1890年代。一重が主流を占めていた時代だが、写真で見るかぎり、八重のように見える。人がまばら、昨今の人出とは隔世の感がある。



1912年(明治45年)。全員が着物。



1921年(大正10年)。大正モダニズムの絶頂期らしく、お子らの服がハイカラになる。



1931年(昭和6年)。銀橋が見える。
この頃になると、ずいぶんと人出が増える。



1942年(昭和17年)。すごい人出。今よりも道幅が狭い。



1952年(昭和27年)。子どもたちが集団で訪れている。学校から来ているのだろうか?




今年の桜の通り抜けは、
4月11日(金)〜4月17日(木)
平日 / 10:00〜21:00
土日 / 9:00〜21:00

今年の桜は、「松前琴糸桜」。
北海道は松前町で毬山家の庭にあった無名の八重桜の大木の種子からつくりだした桜で、開花後、紅色から淡紅色になる端正な桜。
初登場は、「笹賀鴛鴦桜(sasaga-osidori-sakura)」。

造幣局の桜の通り抜け案内
http://www.mint.go.jp/enjoy/toorinuke/sakura-osaka.html

2014年4月7日月曜日

「つひまぶ」創刊を祝うがごとく桜が満開、北区桜の名所は藤堂藩の桜!

「つひまぶ」創刊から三週間、
ブログ、Facebook、Web版などで多くの人に認識してもらえるようになってきた。
”いいね”してくださったみなさんありがとうございます。
配布にご協力いただいているみなさんに心より感謝します。

創刊時は「寒いなぁ~」なんて言ってたけど、
あっという間に新年度を迎え、
「つひまぶ」創刊を祝ってくれているように、あちこちで桜が満開!
しかし花散らしの冷たい雨と風、今年の桜は短くて寂しいですね。

大川端の見事な桜のトンネル

春の舟運でたくさんの船が行きかっています


ほんとに北区ってお花見スポットがたくさんあるんですよね。
毛馬から中之島に続く大川端
扇町公園、滝川公園、などたくさんの地域の公園
最近できたうめきたにも桜が咲いてました。

でも何といっても有名なのは、「造幣局の通り抜け」
今年も4月11日~4月17日まで開催されます。

では、造幣局の桜はいつからあるんでしょう?
 
 実はここは江戸時代には藤堂藩大坂屋敷があったところ
 藤堂藩の桜は有名で120種400本の木があったと言われている。
 明治維新の廃藩置県によって藤堂藩の屋敷は無くなったが、桜は残された。
 藤堂藩といえば、秀吉から家康へ天下人に仕えた城造りの名人、藤堂高虎の家系である。
 
 その跡地に、明治4年(1871年)造幣局創設
 明治16年(1883年)職員だけで見ていてはもったいないと、当時の局長が一般公開を始める。
 それ以来、第二次世界大戦時を除き今日に至るまで公開されている。
 

日本さくら名所100選の「造幣局の通り抜け」
一度は見る価値あり!

2014年4月3日木曜日

「具体」 - キタの芸術が、世界と直結し、同時代性を有し、もっともとんがっていた時代と前衛集団

僕が「具体(具体美術協会)」のことを知ったのは、90年代の半ばにヴェネチア・ビエンナーレで吉原治良の作品が紹介され、前後して芦屋で「具体展」行なわれたときだったと思う。どちらもナマでは見てないのだけれども、その時期に、関連書籍を見て衝撃を受けた記憶がある。

それ以降、「具体」のことは、ずーっと、僕の頭の片隅にあった。

「具体」が結成されたのは、1954年。

岡本太郎がパリから帰国して、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎からはじまる」と宣言したのが1947年。
花田清輝、埴谷雄高、安部公房ら文芸を次のものにワンステップ・ビヨンドさせようとしていた作家たちが、前衛芸術を自分たちのものにしようとしていたのが、1950年代。
縄文土器に衝撃を受けた太郎が、沖縄や東北の古い文化や伝統を再発見し、日本における西洋美術史観に楔を打ったのも、この時代。

「具体」は、そういう時代、1954年に関西在住の若手作家を中心に結成され、姿を現した。前衛にとっては萌芽の時代で、その時代、まだパフォーマンスやインスタレーションといった表現が美術作品として評価されるには、早すぎる時代だった。
ヨーロッパではフルクサスですらがまだ産声をあげていない、まさに前衛前夜の時代なのだ。

指導的な役割を果たした吉原治良の元に若手の前衛芸術家たちが集まり、切磋琢磨しながら、「具体」は、世界に通用する前衛芸術家集団になっていく。
吉原を筆頭に、嶋本昭三、山崎つる子、正延正俊、吉原通雄、上前智祐、吉田稔郎、東貞美など。その後、ヨシダミノル、今中クミ子、向井修二、松谷武判、前川強、堀尾貞治ら、新世代が合流していく。

結成直後には、梅田のサンケイホールで舞台発表を行なっている。
1962年には、本拠地「グタイピナコテカ(具体美術館)」を中之島に開設し、会員たちの絵画の個展が開催されていく。
梅田は阪急東通商店街の路地裏のジャズ喫茶「チェック」の内装を向井修二が手がけたことから、当時、安藤忠雄などのアンテナの高い連中が大挙して押しよせたのは、1966年のことだ。

自由奔放で、前代未聞で、既成の定型を持たない彼らの表現は、彼らが行なったパフォーマンスやインスタレーションは、もしかしたら、今でも、見る人の頭のなかに「?」を浮かび上がらせたり、爆笑を誘ったり、心や肌をざわつかせたりするかもしれない。少なくとも僕は、初めて彼らのコトを紹介する本を見たとき、爆笑につぐ爆笑の連続だった。

紙を張った衝立をドミノ状に並べ、向こうからダダダダーって走ってきて、紙をぶち破る!ってパフォーマンス。
そんなのばっかりだ。

そんな、前衛、反芸術集団から、「具体」は、抽象絵画やキネティックな作品を生み出していく。
後期「具体」、輝きを失っていったように僕には思えるのだけれども、最後の花火は、大阪万博の舞台だったのではないか、と、彼らの年表を眺めていて思う。

1970年の大阪万博の、お祭り広場と岡本太郎の太陽の塔の出現は、日本の現代美術にとってもひとつの画期だった。
磯崎新設計の大屋根をぶち破って、「文明の進歩に反比例して、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」とする岡本太郎。一方で、「牛乳瓶のお化け」、「日本の恥辱」と罵声を浴びせる、磯崎新を象徴とする当時の知識人。
今も圧倒的な存在感を放ちながらそびえ立つ太陽の塔を見るにつけ、大阪万博は磯崎新の最初の挫折だったのだと思うけれども、その磯崎新に「あの広場で暴れろ」とアジられた「具体」もまた、ここでのパフォーマンスは、残り火の最後の輝きだったように思える。白髪一雄の空中ブランコ群が実現していたら、また違った展開があったのかもしれないけれども、実際にはそれは実現せず、呵々大笑の白昼夢は出現しなかった。

「具体」は、1972年、吉原治良の死によって解散する。

「具体」は、50年代から70年代にかけて、いくつかの局面を経たけれども、その初期に持ち得ていた実験性は今も色褪せていないどころか、近年、現代芸術のさまざまな分野の先駆者として、再評価されつつある。
というよりも、再評価されなければならない。

なぜなら、この時代こそ、「具体」こそ、大阪の、キタの芸術が、世界と直結し、同時代性を有し、サイコーにとんがっていたのだから。

「具体」よ、再び!




『具体 Gコレクションより』展 図録より 堀尾貞治


『具体 Gコレクションより』展 図録より 白髪一雄


『具体 Gコレクションより』展 図録より 白髪一雄


『具体 Gコレクションより』展 図録より 鷲見康夫


『具体 Gコレクションより』展 図録より 吉原治良


2014年4月1日火曜日

【配布場所増えた~】つひまぶはどこで手に入るんでしょ~か【デジタルブックもあるでよ~】

さて、つひまぶ創刊から半月が過ぎましたが、もう「つひまぶ」はご覧いただけたでしょうか?
……あら?まだご覧になっていない?おーのー!せっかくのフリーペーパーなのにもったいない。
え?でも、区役所とか行く用事ないし、面倒くさいし。ああ、そうですか。そうですよね。そういう方も多いのではないかと危惧しておりましたよ。あまり行く用事、ありませんものね。

そこで、この「つひまぶ」を多くの方にご覧いただけるように、配布場所の拡大を地道に行っております。
初めてのフリーペーパーということで配布場所がまだまだ少ないですが、お店や地域の集会所などに、本当に地味ながらではありますが増やしていっております。ぜひ、お近くに配布されている場所がありましたら手に取るチャンスであります。是非読んでいただいて、地元の宝である「人」を感じ取っていただきたい。そう思っております。
その配布場所はどこか?今ご覧になっているブログの右側に記載しております。「サイドバー」っていうんですが、ここに、「つひまぶ」配布場所というカテゴリを作っております。よろしくお願いしまーす。



でも、やはり時間がないなーとか、やっぱり面倒くさいという方。いやいや、そうですか。そうですよね。そこまでものぐさな方もいらっしゃるかもしれませんね。
そういう方のために、「つひまぶデジタルブック」がダウンロード出来るようになりました!
このデジタルブックは、よくメーカーのカタログなどでおなじみの形式で、マウス操作で拡大縮小・ページ送りなど、本を読んでいる感覚でご覧いただける方式です。北区役所のホームページからリンクがたどれますので、アドレス置いときますね